最終年度に当たる本年度は、計画書の計画どおり、「刑事裁判(以下、裁判)正統化の論理構造の解明」に焦点を合わせて考察を進めた。特に共産党(政法委員会)の「指導」の結果生じたえん罪という「不公正」を契機とする、裁判の独立性ないしは裁判に対する「党の指導」のあり方をめぐる当局の言説および学界の議論を重点的に考察した。その上でこれまでの知見をまとめ、アジア法学会および東アジア法哲学会(於台湾)で報告した。その主な内容は以下のとおりである。 すなわち、当局は裁判に公正さが必要であることは認めているが、なお「党の指導」の不可欠性を主張する。日本では公正のためには裁判官の独立が、また中国の有力説においても同様に裁判(官)の独立の徹底が不可欠と考えられているが、当局はそうした考え方には与せず、上位者の「監督」によって「公正」を担保しようとしていると考える。そしてそこには、こうすることが現在の「党の指導」のあり方と、さらには「統治秩序の維持・形成」という裁判の最も重要な目的と適合的であるという判断があるからと考えられる。つまり、中国の裁判が「統治秩序の維持・形成」という目的を最も重要なものとして担うが故に、裁判は統治者たる「党の指導」を受けることにより正統なものと観念され、最重要目的ではない「公正」は、以上の枠組みに適合するように、「独立」ではなく「監督」によって担保されるべきとされることになると考える。 以上のように、なぜ中国において「党の指導」を受ける裁判制度の正統性が主張されうるのか、またそこで日本では裁判の本質的要請と考えられている「公正」がどのように位置づけられているのかが明らかになった。彼我の「裁判」は質的に異なる営為であり、中国の裁判にとって「独立」は本質的要請ではないと考えられることになる。
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