昨年度に予告していた論文(「『代表』・『国益』・『輿論』一美濃部達吉の貴族院論」)を公表した。本来であれば、今年度においては、五・一五事件以前の美濃部達吉の学説を分析した昨年度の成果を基礎として、同事件以後の彼の政治評論を分析することによって、美濃部憲法学の全体像を描ききるはずであった。しかるに、本研究以外の研究・教育負担の過重により、本研究に十分なエフォートが割けず、当初目的を達成できなかったことをここに告白せねばならない。 とはいえ、右論文では、美濃部の貴族院論を検討するに際し、それを彼の憲法学の全体像の中に位置づけることにこだわった。詳しく言えば、本研究の鍵概念である「立憲政治」=「萬機之を国民の公論に決するの政治」が美濃部においては必ずしも国民による国家意思形成を意味しないことを明らかにした上で、その背景として、国家と国民との調和的な関係への期待があるのではないかとの仮説を提示することによって、彼の国家論研究の足掛かりを得ることができたと考えている。もとより、美濃部憲法学の全体像の解明には程遠いけれども、ナショナリズムという視点から美濃部憲法学を分析するための道具立ては随分整ってきたと思う。 ところで本研究には、付随的にではあるが、国家論を分析軸に置くことによって日本憲法学史研究に新たな展望を切り開きたいとの目的もあった。この点に関連して、未だ成果は明らかにされていないが、昨年度の憲政史研究をさらに発展させる形で、天皇制と平和主義という観点から我が国め憲法史を分析するという課題にも取り組んだ。これは、さしあたり美濃部の国体論研究に新たな示唆を与えてくれるのではないかと期待しているが、将来的には右のような研究にも繁げていきたいと著考えている。
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