まず、北海道松前の伊達林右衛門について、1800年から明治30年代まで分析をした。そこでは、まず、冷害に伴う凶漁のほか、蝦夷地防備のために、江戸の本家が冥加金負担をした関係上、本家からの資金供給が途絶したこと、伊達家の漁場がある増毛地方の防備を担当した秋田藩に巨額の冥加金上納を命じられたこと、さらには秋田藩関係の船が、本来、口銭支払のために寄港を義務付けられた松前を素通りしたことに伴う収入減もあり、既に幕末時点での経営悪化を明確化した。このことを背景に、松前地域社会内部で主に金融面を通じた「地方名望家的行動」を取るのが困難になったこと、さらには松前での事業継続が困難になり、債務整理の後の札幌への移住を明らかにした。これらを通じて、同地の資産家の場合、幕末の段階で既に経営が悪化しており、明治期以降に「地方工業化」の動きが顕在化した際に、企業への出資や役員就任を通じて地域振興を図る「地方名望家的投資行動」を採ることが困難であったことを論じた。 次に、函館市の資産家、小熊幸一郎家について、1920年から36年まで分析をした。そこでは、まず、反動恐慌以降の地域経済の衰退に伴い同家も経営を悪化させ、25年には家産整理を余儀なくされたことを論じた。しかし、釧路など道内他地域や東京方面への投資、炭鉱経営への本格的参入などを通じた、函館から遊離する形での事業の多角化の展開も明確化した。そのような中で、同家は、一時的に函館地域経済の再建のために、企業に投資したり、役員に就任する「地方名望家的行動」をとったが、事業活動を通じた地域貢献は大きく後退し、寄付行為などを通じた「地方名望家的行動」を採るのも困難になった。 最後に、衰退地である北海道A町所在のS家について論じた。同家は、地域経済の衰退に際して、「資産保全志向」を強め、資金面では東京に移住した本家に依存する面もあったことを明らかにした。
|