本研究で関心を持つ第二次世界大戦前における日本とタイの子どもの交流は、以下の通りである。なお、日本の子どもについては当時の社会教育組織としての少年団に着目し、タイの子どもについては学校教育の一環として組織された「ルークスア」に着目する。両者は20世紀初頭のイギリスに起源を持つボーイスカウトの流れを受けている。 1929年、大阪や東京の新聞社が資金を提供し、ルークスアに所属するタイの子どもたちが来日した。1931年には日本の少年団の子どもたちがタイの招きを受けて訪タイした。さらに1931年、タイの国王ラーマ7世が渡米する途中、日本に寄港した際、日本の少年団も歓迎の式典に参加している。 1934年、少年団日本連盟の練習船が東南アジアー周航海を行う途中、タイに寄港した。 1935年、ルークスアが少年団に象を2頭、贈った。それぞれ東京の上野動物園と大阪の天王寺動物園で飼育された。前者が1943年に餓死する「花子」である。象の寄贈の返礼に1935年、少年団日本連盟の練習船をタイに譲渡することが日本とタイで検討されたが、改修や航海に要する費用の点で問題が生じ、実施されなかった。そして1937年、象の寄贈の答礼として、少年団がタイを訪問した。その際、タイが日本の少年団の指導者養成に関心を示し、同年に日本で行われた指導者養成にタイの指導者4名が参加した。 ボーイスカウトの世界規模の大会を除けば、日本の少年団とタイのルークスアは互いにほとんど唯一の、複数回にわたる国際交流の相手であった。ただし、日本はタイとの交流を積極的に図ろうとしていたが、タイは象の寄贈を除いては日本の招きに応え、あるいは少年団を受け入れるという消極的な態度であったことが伺える。ここに、日本とタイの温度差があるように思われる。
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