これまで、障害者スポーツはリハビリからスポーツへの流れとして、パラリンピックを起点とする単線的発展として歴史化されてきた。このモデルの背後には次の認識が存在する。すなわち、障害者スポーツの普及・振興の進展が、障害者のスポーツ参加への機会の平等と、社会のノーマライゼーション等の進展、社会の変化の促進につながるとするものである。しかし、この認識には問題点が存在する。まず、イベントにおける理念(機会の平等)からの逸脱へ対処できない点であり、次に競技の高度化を志向したことで、社会全体の変革の志向性へ結びつかなくなったことである。以上の点は、我が国における障害者スポーツと60年代後半以降の社会運動の関係の希薄さ生み出したと考えられる。本研究ではこうした制度的状況を「障害者スポーツ体制」とし、分析・検討した。 本研究では、初代の障害者スポーツ協会会長である葛西嘉資の言説に着目した。葛西の存在は、パラリンピック開催に必要な資源を調達し、官公庁と民間の協力を可能にしたといえる。一方でこの葛西の影響力により、障害者スポーツは当事者団体としてより、福祉行政の一部を担う組織として成立・活動することになったといえよう。この葛西の影響力により、1964年のパラリンピックの開催とその支援体制の制度化である「障害者スポーツ体制」が生み出されたといえる。 ただし、葛西の初期の言説には注目すべき点が存在する。それが、パラリンピックの開催により、障害者を取り巻く社会的条件整備を目指すこと、すなわち、障害者スポーツをきっかけとした「社会変革」の志向性の存在である。しかし、この志向は、その後の障害者スポーツには反映されず、リハビリ・レクリエーションとしてのみ展開されることとなった。そうした障害者スポーツの福祉的あるいは、「スポーツ的」意味づけは、スポーツにおいても「障害者」の問題を個人化することにつながったといえる。
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