前年度は、初代の障害者スポーツ協会会長である葛西嘉資の言説に着目し、葛西の存在が、パラリンピック開催に必要な資源を調達し、官公庁と民間の協力を可能にしたことを明らかにした。これにより、障害者スポーツは当事者団体としてより、福祉行政の一部を担う組織として成立・活動することになった。本研究ではパラリンピックの開催とその支援体制の制度化を「障害者スポーツ体制」と呼んだ。ただし、葛西の初期の言説や1964年めパラリンピックをめぐる言説には注目すべき点が存在する。それが、パラリンピックの開催により、障害者を取り巻く社会的条件整備を目指すこと、すなわち、障害者スポーツをきっかけとした。「社会変革」の志向性の存在である。当時の新聞・雑誌においてのパラリンピック東京大会の取り上げ方を見ると、その多くがパラリンピックの開催から浮かび上がった欧米と日本の社会的条件の格差を指摘し、スポーツ大会をその現状を変革するための第一歩として捉えている。こうしてパラリンピックに託された社会を変える契機はその後、ほとんど活かされることはなかったといってよい。例えば、身体障害者の就業率を見てみると、昭和35年から平成18年まで変わっていない。その後、障害者スポーツが報道されることはほとんどなくなり、障害者スポーツの意義は、当事者自身のリハビリテーションとしての言説が提示されていくようになる。つまり、パラリンピックの意義として捉えられた社会の変革は実現されていないということがわかる。
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