本研究では、6世紀後葉~7世紀中葉頃にかけてみられる金銅製冠と銀製冠を分析対象とし、これらの技術系譜について検討した。これにより、冠の製作を担っていた工人集団の動向を探ることを目的とした。 これまで冠の技術系譜は冠形式ごとに論じられてきたが、冠形式相互の系譜関係についての検討は深められていない。そこで本研究では、冠形式を横断した視点で、技術系譜について検討することとした。 資料調査で得たデータをもとに分析した結果、冠は「①広帯二山式冠との共通性が認められるもの(島根県鷺の湯病院跡横穴墓、千葉県金鈴塚古墳、千葉県松面古墳例など)」、「②百済の銀花冠飾の影響を受けたもの(香川県母神鑵子塚古墳、山梨県平林2号墳、千葉県浅間山古墳例」)、「③連珠円文がみられるもの(静岡県涼ノ御所古墳、千葉県浅間山古墳、茨城県武者塚古墳、福岡県銀冠塚古墳例など)」の3つの技術系譜に分類できると考えた。 ②・③は、6世紀末~7世紀初頭頃にかけて百済から新たに渡来した工人集団によって製作されたものであると考えられる。同時期における百済系工人集団の渡来については、装飾大刀や装飾馬具の状況からも指摘されている。冠にみられる特徴的な現象としては、百済系工人集団が新たに渡来しても、5世紀後葉頃から日本列島で広帯二山式冠の製作を担ってきた工人集団によって製作されたもの(①)が依然として確認できるという点である。①と②・③に共通する文様や技術はみられないことから、これらの工人集団が互いに交流した様子はみられない。やがて、②・③の工人集団は金銅製仏像や仏教荘厳具、装飾馬具などの製作を担うこととなり、①の工人集団は消えていくことになるが、その過渡期の様相を冠で確認することができた点は、当時の工人集団の動向を探るうえで一定の成果であると考える。
|