申請者はコレラ流行の記録について、感染症の言説史という視座のもとで精力的に研究を行った。大きく研究の成果は三つに区分される。 まず、紙面を通したコレラ流行の解釈とその変遷についての解読である。明治期(近代初頭)の日本社会において、流言とは概して口頭のコミュニケーションを通して伝播、発生するものであった。これはCovid-19の流行においてもある程度見られた現象であり、現代の出来事を相対化して捉える上でも有益な史料である。令和4年度の研究では、コレラをめぐる俗説や噂がどのように位置づけられ、批判や啓発の対象になったのか記述した。流言への啓発事業においてイニシアティブをとった大日本私立衛生会の働きもまた無視しがたい研究対象であった。 次に、上記の成果を踏まえて衛生展覧会のような、細菌の存在を可視化するための諸装置について記録の収集と整理を行った。感染症に対しては、そのメカニズムへの無理解から洋酒や石鹸などに予防効果の価値づけがなされるなど多くの混乱が生じた事実があり、感染原理の周知は社会的な重要課題でもあった。実際、衛生展覧会の展示項目には「迷信と衛生」のような記録が残されており、内務省を中心とした主催者側の、流言蜚語への強い危機意識が反映されていた。 最後に、衛生整備が感染症に対して行われたことが、どのような排除や分断を生じさせてきたのかを、隔離病院の日記や手記などを中心に再検討した。感染症をめぐっては、罹患者や彼らが暮らす地域への差別などが社会問題となってきた記録があり、これは現代でも通底する課題である。日誌内で患者や医療従事者がどのようにスティグマを付与され、不当な扱いを受けていたかを考察することで、その解消に向けた方途を探った。
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