論文「ちさとのほかまでながめたる――『徒然草』百三十七段――」、「永正十三年七月二十九日和漢聯句(初折)訳注」以下の和漢聯句の訳注は、昨年度までに行なってきた研究の成果を活字化したものである。 研究会での発表「月は青いか」は、上述の「ちさとのほかまでながめたる――『徒然草』百三十七段――」を承けたものである。百三十七段の「青みたるやうにて」は、「暁近くなりて待ち出でたる」月が、青い色を呈していることをいう表現として理解されている。しかしながら、同時代までの和文で月を「あを」と表現した例は認められない。当該の文の構造について再検討し、さらに『徒然草』における時間の認識とも関連させることで、月が若くなること、未熟なさまをいう時間表現と読むべきであることを述べた。 学会発表「『和漢朗詠集見聞』について」は、中世に成立した『和漢朗詠集』の注釈書に認められる注説をきっかけとして、『和漢朗詠集』所収の漢詩句の意味を検討しようと試みたものである。「酔はずんば黔中に争か去くことを得む、磨囲山の月正に蒼蒼たり」の「蒼蒼」について、現代の諸注釈では具体的に説明されないことが多い。けれどもこの「蒼蒼」という表現は、中国ではぼんやりとした、十分に明るくない月をいう際に用いられるのに対して、日本では明るい月、さらにいえば満月のことを表現する際に用いられる。よって『白氏文集』の原詩では「十分に明るくない月」の形容であるが、『和漢朗詠集』所収の漢詩句としては「明るい月」の形容と考えられる。これは『和漢朗詠集』における「月」が、例外なく明るい月であることとも齟齬しない。公任も「蒼蒼」を明るい月の形容として理解していたことが窺える。以上は『和漢朗詠集』所収の漢詩句の一例について解釈を検討したに過ぎないが、このような検討の集積は、『和漢朗詠集』という詞華集を理解するうえで肝要な作業であると考えている。
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