私は単純な分子集合系から複雑な生命システムを繋ぐ組織化原理の理解に向けて、両者を橋渡しするミニマルセルとよばれる生命のモデル実験系の研究に取り組んだ。ミニマルセルとは生命にとって本質的と思われる自己生産などの機能を単純な分子集合系を用いて最小限の形で再現する分子システムである。本年度、私はまず研究実施計画に従いミニマルセル系の情報高分子として採用したPANI-ES(エメラルジン塩型ポリアニリン)のラマンスペクトルによる評価に取り組み、モデル細胞膜であるベシクルの膜表面にPANI-ES構造が局在することをマイクロラマンマッピング測定により明らかにした。これは私が従来の取り組みの中で実現してきたベシクルの膜成長系について、膜表面に局在したベシクルの情報高分子 PANI-ESが膜外からの膜分子の取り込みを促進させることでベシクルが成長するという仮説を裏付ける結果となった。そしてラマン顕微鏡によるPANI-ES構造の分布の観測と、位相差顕微鏡によるベシクルの形状変化の観測を連携させ、膜面上で情報高分子PANI-ESとカップルしながら成長・分裂して自己生産する人工ミニマルセル系の構築に成功した。また理論面では、情報高分子PANI-ESの合成過程と膜分子の取り込み過程について、まず実際の化学反応ネットワ ークの本質的な特徴を5つのモデル反応式へと縮約した。そしてそれらの反応速度式を導出し、反応ネットワークの構成要素濃度の時間変化について記述することで、ミニマルセルの情報高分子合成、膜成長、及び2つを連携させる各要素の時間発展を記述する数理モデルを構築した。この人工ミニマルセル系はソフトマター物理を基軸とした物理科学の立場から生命シス テムを考察しボトムアップな方法論で構築されたものであり、今後複雑な生命現象を物理学の立場から捉え直していくための足がかりとなることが期待される。
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