研究課題/領域番号 |
21J15441
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研究機関 | 早稲田大学 |
研究代表者 |
伊藤 涼 早稲田大学, 文学学術院, 特別研究員(DC2)
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研究期間 (年度) |
2021-04-28 – 2023-03-31
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キーワード | 玄学 / 中国思想 / 中国哲学 / 何晏 / 王弼 / 阮籍 / 郭象 / 張湛 |
研究実績の概要 |
本研究は、中国の魏晋南北朝時代に流行した「玄学」という学問思潮について、先行研究の問題を鑑みて、「玄学」という学問思潮それ自体を再定義し、また、従来とは異なる「魏晋玄学史」の構築を企図するものである。ただ、この目的を達成するためには、個々の思想家の調査が必要不可欠であり、2021年度までは、三国・魏の何晏・王弼や阮籍、西晋の郭象、東晋の張湛の思想の検討を行った。 「玄学」といえば、従来の研究では中国思想のうちで特異な思潮とみなされ、西洋哲学、なかでも「存在論(Ontology)」との類似点を見出して検討が進められてきた。しかし、古くは侯外廬に指摘があるように、そうした「玄学」理解は、「玄学」に西洋哲学を“発見”しようという別の動機が働いており、純粋に「玄学」本来のすがたを明らかにしようとしたものとは言い難い。本研究によって「玄学」が再定義されることになれば、「玄学」それ自体の研究の進展だけではなく、後世の思想家が「玄学」からいかなる影響を受けて思想を形成したのか、あるいは、六朝時代の知識人達が、「玄学」の言説や理論を援用して、文学作品・政治的提言を行ったのかということについての研究が大きく進展することになると考えられる。 また、「玄学」に関する研究は中国では盛んに行われているが、日本には「玄学」を主題として取り扱う専著はなく、この意味で本研究は日本における「玄学」研究の端緒となる。なおかつ、本研究は、魏晋思想においてもなお儒教思想が大きな基底をなしているという、板野長八以来の魏晋思想史への見通しを引き受けて、更なる考究を加えるものであり、日本の魏晋思想研究史における次なる段階の研究として位置づくものとなる。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
1: 当初の計画以上に進展している
理由
本研究は、個々の思想家の調査が必要不可欠であり、具体的には三国・魏の何晏・王弼や阮籍、西晋の郭象、東晋の張湛の思想の検討を行う必要がある。2021年度以前までに何晏・王弼の思想の検討を行い、2021年度は他の三人の思想の検討を行った。 阮籍については、「通易論」・「通老論」・「達荘論」という三つの「論」と、「大人先生伝」・「詠懐詩」・「清思賦」などのいわゆる文学作品のなかに表れる思想を分析した。阮籍の思想には、いわゆる魏晋玄学史の内部に位置づけられるものと、そこから離れていこうとするものがあり、このうち後者を継承する知識人も多くいて、魏晋期には「玄学」が提出する世界の枠組みから離れるために表現形式を利用して文学作品を著述するという流れも起こっている。 郭象については、『荘子』注を中心に思想の分析を行った。その結果、郭象は先行する思想家に見られた聖人による「無為の治」の理論を継承しながら、物の存在の仕方の理解については何晏・王弼とは真逆の理論を打ち立てていることが分かった。おそらく魏晋玄学史において、聖人が万物を治めるという「聖人統治」の理解はある種疑いようのない前提であり、郭象はその前提のなかで王弼よりも分かりやすい形式で「無為の治」の理論を補強しようとしていたのだと考えられる。この成果については2021年度中に学会発表を行った。 張湛については、『列子』注を中心に思想の分析を行った。彼が行ったことは先行する思想家達の議論をそのまま引き受けながら、それを総合的に取り込み、さらに理論的に不十分であったところは補うというものであった。おそらく仏教が流入し、それに対抗しうるだけの理論的な体系を打ち立てようとしたものだと考えられるが、結果として本来もっていた政治思想としての側面が弱くなり、「玄学」は後世から評価されているような、現実の問題に結びつかない空虚な学問になったのである。
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今後の研究の推進方策 |
2022年度は、これまでの個々の思想家の調査を踏まえ、「玄学」が結局のところいかなる学問思潮だったのか、そして「玄学」が魏晋期にいかなる展開を見せていったのかについて、総合的に判断して結論を与える。 従来の「玄学」研究では、「玄学」の主題は「本体論(Ontology)」であるという理解が支配的であり、その理解のもとで「玄学」を定義し、魏晋玄学史を把握するものが多い。しかし、古くは侯外廬に指摘があるように、そうした「玄学」理解は、「玄学」に西洋哲学を“発見”しようという別の動機が働いており、純粋に「玄学」本来のすがたを明らかにしようとした結果の理解であるとは言い難い。現在までの調査を踏まえると、彼らの思想のなかで、「本体論(Ontology)」が主題であると言われるほど、存在者(物)がどのように存在しているのかについての理論的な説明が行われていないのである。彼らの物についての説明は無前提の設定とも言えるものでしかなく、それ以上の詳しい説明はほとんどなされていない。 そしてさらに、以上のような設定は、各思想においてすべて「(理想的な君主としての)聖人が万物を治めている」という世界のあり方を根拠づけるものとなっている。「聖人が万物を治めている」ことを仮に「聖人統治」というのであれば、この「聖人統治」という思考の枠組みは、何晏・王弼・阮籍・郭象・張湛のいずれの思想にも共有されており、その共通の思想的土台が「無」や「道」あるいは「無為」や「自然」という彼ら自身が再設定した概念によって根拠づけられているのである。そうであれば、魏晋玄学史は「聖人統治」に対してその補強の仕方を競っていく、いわば「聖人統治」の解釈史としての大きな流れを想定することができると考えている。
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