まず江戸時代の唐話辞書『俗語解』における『水滸伝』の問題については、かつて論じたことがあるが、そこで用いられた『水滸伝』テキストの具体相に焦点を絞って、さらに掘り下げた。この『俗語解』は、沢田一斎(1701~1782)の撰に擬せられ、その時期は彼の晩年、すなわち清代後半に相当するが、結局公刊はされていない。原初的と目される国会図書館写本を見ても、語釈が無かったり、有っても前後で噛み合わなかったり、用例を恐らくは記憶に頼って書いた部分が見られるなど、これが一義的には唐話を学ぶ者の手控えをまとめたものであることを示唆する。とはいえ『水滸伝』については百二十回本を主としつつ、七十回本についても、批評のみならず本文をも副次的に参照している。さらに和刻本を援用したであろう個所も散見されるが、このテキストは第二十回までで終わっていることもあってか、その使用はあくまで限定的である。 この時期に『水滸伝』は日本語のみならず他の諸言語でも翻訳や注解等がなされたが、なかでも満洲語との関係は、それが清朝支配者の言語でもある点で、特に注目されるものであろう。これについては先ごろ寺村政男氏が、フランス国立図書館蔵抄本の満洲語訳を全文翻字のうえ訳注を完成された。この業績を参照しつつ原文を再検討し、用いられた『水滸伝』底本の具体相に焦点を絞り、新たに分析を行なった。所見によればパリ本は、三大冦本や、また容与堂本に代表される分巻百回本を底本に用いるのみならず、加えて百二十回本や簡本をも利用していると見られる。それは意図的な使い分けと言うよりも、パリ本が満洲語訳諸抄本のなかでも比較的後出であり、たとえば欠けた部分を別の底本で改めて訳出するなど、複雑な経緯を経た結果である可能性が高いと見られる。 これらの研究を支える、『水滸伝』諸本や続書・派生作品など関連諸文献への調査分析や検証等も、進展させることができた。
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