本年度は、康熙から研究年間にかけて活躍し、杭州詩人の代表者とみなされた厲鶚の詩作に対して、同じ杭州詩人の袁枚がどのように評価したかを考察した。さらに袁枚の批評を通して、厲鶚をはじめとする各地の詩壇で活躍した杭州詩人たちが抱えざるを得なかった問題点について考察した。 厲鶚は杭州を代表する詩人とされ、当時厲鶚に続く同郷の詩人達も含めて、袁枚から「浙派」と称された。浙派は、当時から宋詩偏重と典故の多様を批判されることが多かったが、厲鶚だけは別格で、豊かな詩才と典故を用いた知的で個性的な詩風は、高い評価を得ていた。袁枚は、自分自身が浙人であることを強調しつつ、浙派を憎む、と記している。そして厲鶚に対しては、詩才を称えつつも、批判を加える。批判の内容は、揚州塩商の蔵書の知識に基づく典故の多様であり、また詩型については、七言古詩を「索索然寡真気」と、味わいがないもと指摘する。そこで、とくに七言古詩を中心に考察を行った。その結果、厲鶚の七言古詩には、同題集詠の作、つまり歴代の詩人と同じ骨董を詠ずる、あるいは詩会同人とともに同じテーマで詠ずる詩が多いことがわかった。また、杭州での作と比較し、揚州での作は、依頼されて絵画に題したもの、骨董を詠じたものが多いことが明らかになった。絵画や骨董を詠じたものは、その歴史についての典故が多く、詩としての情緒が乏しいが、その典故の多さゆえ、史実や考証を好む時代には大いに受け入れられたことがわかった。またこれらの作品のいくつかは、金石志、地方志などに採録されていることもつきとめた。つまり、こうしたものに採録されるにふさわしい詩として、その持ち主である塩商らに依頼され、資料的価値を備えた詩を作ったことが考えられる。袁枚は史料的価値をもつことを求められる当時の風潮に反対したことが、これらの批判から見て取れるのである。
|