騒音から近代を見た。近代文学作品・新聞記事に導かれ科学雑誌に触発されて都市の音風景から近代を分析した。騒音をめぐり自由の概念が生活感覚として生活習慣化してゆくようすを追った。神経衰弱という用語で個人的内面性という図式が生まれ人間工学的疲労研究という用語で近代的自我という枠組が輪郭づけられてゆくのを見た。 森厳という言葉が特権化されてゆき国家主義的イデオロギーが確定し、都市の交響楽というフレーズで都市の騒音環境が表象問題に還元されてゆく顛末を明らにした。 これらを綜合して理念や思想信条とは違った角度から感性と身体表象の歴史として近代をあぶりだそうとしてきた。騒音を軸に国家と社会と個人との錯綜した相互関係をあぶりだした。 近代都市の音風景を分析するとき欠かせないのは音の権力構造、とりわけ森厳イデオロギーをめぐる論点だ。神都の宗教的・政治的超越性を担保するのに静寂を仮構することによってこれにあてる。しかも、神聖性や不可侵性といったなかば不可知論的イメージを音響物理学や建築学といった数理体系でもって作りあげる。いわば神話と科学の邂逅という構図。これが明確になった。これは同時に科学と権力の関係性というより普遍的で大きな文脈で検証されるべきできごとであったからだ。ひとり伊勢神宮と神都計画に限った話ではない。現代社会の日常生活のあらゆるところに散在している現象でもある。静かにしなくてはならない場所。静粛であらねばならない時間。病院や学校、睡眠時間や試験時間というかたちで直接触れることができるものばかりだ。つまり音の権力構造はわれわれ自身の問題でもある。 しかも、そこに科学技術が動員される。科学技術がなければ神都計画も実現しなかっただろうし、われわれの生活世界のなかにある静粛な時間や空間もまた現実のものとはならなかっただろう。
|