北宋・遼以外にも近隣諸国(特に西方の国々)と北宋・遼との関係性にこそ注目すべきであるという近年の研究の流れを踏まえ、西夏及び金における婚姻外交について研究することで、当時の東部ユーラシアを巡る国際秩序の新たな解明にも繋がると考えて進めてきた。しかし、途中で、漢文だけでなく、西夏や金を巡る漢文以外の史料収集及びその考察にあたる必要性を痛感し、当該研究期間でこれを行い、その後に学会発表や論文作成を行うことに目標を切り替えた。論文リサーチや他の研究者との情報交換も同時に密に行ってきた。加えて、自身の校務(部活動)や予期せぬ家庭の事情などもあり、研究成果を目に見える形では報告出来なかったが、今後の確実な成果をあげるために必要な作業・期間であった。また、自身の遼における婚姻外交を取り上げた論文を出版しようとも計画している。 1年目に、西夏が婚姻外交の対象とした勢力のうち、主に青唐について考察した。当時、西夏と青唐との間に明確な上下関係は存在せず、西夏は不仲な状態にあった青唐に対し、その内部を分裂させて自らに取り込むための手段として、及び、強い勢力を誇る青唐と結び付くための手段として、互いに女を嫁がせ合う婚姻を有効有益な外交政策として頻繁に利用していた。 2年目に、西夏からモンゴルに対して行われた婚姻外交を巡ってその背景や狙いについて史料収集及び考察した。 3年目に、金からモンゴルに対して行われた婚姻外交を巡ってその背景や狙いについて史料収集及び考察した。 現時点で、西夏と青唐との婚姻外交と、西夏及び金からモンゴルに対して行われた公主降嫁とでは、大きな差異が存在し、前者は両国間に明確な上下関係は存在せず、西夏は婚姻外交を通じて自らに優位な立場を構築したと考えられる一方、後者はモンゴルが圧倒的な優位を誇る中で、いわば西夏と金から降嫁した公主には人質的な意味合いが大きかったと想定するに至った。
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