3年目における研究対象はペルティナクス帝(位193年)からセウェルス・アレクサンデル帝(位222-235年)までの42年間、つまり所謂【軍人皇帝時代】の直前を対象とした。この42年間に皇帝裁判の被告議員数は59名を数えた。従って、皇帝裁判の被告議員は1年間当たり1.4人というデータが得られた。そして被告議員の多くが有力元老院議員であったという印象が得られ、これは皇帝がライヴァル議員の排除を求めて、皇帝裁判を意図的に利用したと考えさせるに足るであろう。ここに、皇帝の権力装置としての「皇帝裁判」像が浮かび上がる。 だが、皇帝は権力闘争にのみ関わっていたわけではない。皇帝政府は都市に治安の維持と帝国への徴税を任せる代わりに、バーターとして都市に自治を与え、基本的に都市への介入を控えて、中央からの命令を逐一、通達したわけではなかった。その結果、都市政務官は都市内の係争を裁くことができたのであるが、この裁定に不服な訴訟関係者は属州総督や皇帝に訴え出ることが許されていた。皇帝に訴え出た際の、皇帝による裁定内容を書き記した「勅答」はローマ法史料(主に『学説彙纂Digesta』)から知られており、これは広義の皇帝裁判事例と解されよう。そして、この勅答は29事例を数える。
この3年間で史料から確認してきた事例を積み上げてみた結果、その総数は予想を超えていた。 ローマ皇帝は自分にとって不都合な人物(多くが元老院議員)をあの手この手で排除する一方で、帝国各地の紛争に対して帝国の最高の存在として自身の見解を明らかにしており、法学者たちが皇帝の見解に法的拘束力を認めた結果、これら勅答が法源となっていった。皇帝裁判権がローマ法の発展を促したとも言えるのである。
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