本研究では、奈良時代、平城京周辺の造営事業と造瓦について、その全体的な構造を捉えていくための視点として、光明皇后(701~760)により行われた造営事業に着目した。 光明皇后あるいはその家政機関である皇后宮職との関りが指摘されている造営事業を、地理的な位置と所用軒瓦のありかたからみると、A:平城京の皇后宮、法華寺、法隆寺東院、恭仁京の皇后宮、B:興福寺五重塔、同西金堂、新薬師寺、C:東大寺東方山麓の寺院跡、東大寺の3グループに分けることができる。さらに、その生産に関わる奈良県歌姫西瓦窯、京都府音如ケ谷瓦窯をAに、京都府梅谷瓦窯、奈良県荒池瓦窯をBに加えることができる。これら3グループの遺跡について、個々の造営事業とその造瓦に関する史・資料および先行研究を収集・整理したうえで、研究の現状をふまえ、軒瓦の系統性から各グループ内での造瓦のありかた、そしてグループ間のありかたを時間的・空間的に検討した。 その結果、光明皇后の造営事業における造瓦は、軒瓦に関していえば、基本的にA・Bグループに対応する父藤原不比等の代からの2つの系統の瓦范と文様(6285A・B-6667A・6691A型式、6301-6671型式)を受け継いでおこなっていると言ってよく、東大寺東方での造寺活動においても、両グループからの供給がおこなわれていた。瓦屋・瓦窯および製作技術においても、こうした理解が妥当である可能性が高い。 光明皇后の諸活動の経済的基盤については、これまで父不比等の家産の継承という側面と、天皇家としての財源という2つの側面から検討が加えられてきた。事業を具体化する手段とそのための経済的基盤を、それぞれどこに求めるのかという点については個々に検討が必要であるが、光明皇后の造営事業における造瓦においては、藤原氏の家産の継承とその利用という性格が強いことを読み取ることができた。
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