研究課題/領域番号 |
21K01376
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研究機関 | 日本大学 |
研究代表者 |
笠原 孝太 日本大学, 国際関係学部, 助教 (60883965)
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研究期間 (年度) |
2021-04-01 – 2026-03-31
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キーワード | 乾岔子島事件 / ノモンハン事件 / スターリン / 満ソ国境紛争 |
研究実績の概要 |
令和4年度実績として以下の研究論文を発表した。 ①笠原孝太「満ソ水路協定とポヤルコワ水道封鎖問題:乾岔子島事件の前史的研究」『国際関係学部研究年報』(第43巻)。 ②笠原孝太「乾岔子島事件の対ソ作戦とノモンハン事件への影響:日本側史料・文献から読み解く「満ソ国境紛争処理要綱」と「独断専行」」『軍事史学』(第58巻第4号)。 いずれも1937年に勃発した日ソ国境紛争である乾岔子島事件をテーマにしたものである。 ①論文では、乾岔子島事件の前史的研究を行うために、島のある黒龍江の取り扱いを定めた1934年の「満ソ水路協定」に注目し、同協定締結までの交渉とその後の交渉内容を明らかにした。水路協定には日満とソ連が都合よく理解できる不確実な部分があり、最終的にソ連が協定を破棄するに至った。協定を破棄したソ連は、河川の主航路を封鎖して航路の実効支配を試み、乾岔子島にも上陸し日本軍との武力紛争に発展した。一連の経緯から乾岔子島事件は、ソ連が島そのものを獲得しようとしたのではなく、河川航路を支配するための手段として島を占領した可能性が高いと結論付けた。 ②論文では、乾岔子島事件が1939年のノモンハン事件に与えた影響を対ソ作戦史から研究した。乾岔子島事件の勃発当初、参謀本部は関東軍に対して強い態度で臨むことを要求し、これに応えるために関東軍は島の奪回作戦の準備を進めていた。しかし、国境紛争が本格的な対ソ戦へと発展することを危惧した参謀本部は、途中で攻撃中止の臨命を関東軍に伝達した。この命令で関東軍内は混乱し、命令に従って中止すべきと主張する東條英機参謀長と作戦の継続を主張する作戦課が対立した。結局作戦の「一時中止」の方針を固めたが、今度は辻政信参謀がこの決定を弱腰と痛烈に批判し、再び対立が生まれた。この時の経験がノモンハン事件での辻の独断専行に繋がっていることを辻の自著等から明らかにした。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
新型コロナウイルス、ロシア・ウクライナ情勢の不安定化により問題も発生したが、初年度の研究課題を踏まえて、研究論文を二本発表することができたため、研究は概ね順調に進展していると評価できる。 新型コロナウイルスの影響が収まりつつある中、ロシア情勢が不安定化し、ロシアが外務省の危険情報でレベル3(渡航中止勧告)になってしまったため、現地での史料収集を行うことはできなかった。この予期せぬ問題によりロシア側の史料収集の進展はなかった。 しかしながら、初年度に残った研究課題については、日本側の史料・文献を駆使した「満ソ水路協定とポヤルコワ水道封鎖問題:乾岔子島事件の前史的研究」『国際関係学部研究年報』(第43巻)の発表により克服することができたと考える。乾岔子島事件と満ソ水路協定の関係を明らかにしたことにより、紛争前の満ソ・日ソ関係をより正確に捉えることができるようになり、紛争の実態解明を大きく前進させることができると考えている。 別稿の「乾岔子島事件の対ソ作戦とノモンハン事件への影響:日本側史料・文献から読み解く「満ソ国境紛争処理要綱」と「独断専行」」『軍事史学』(第58巻第4号)では、乾岔子島事件の全体的な再検討と辻政信の記録から、1939年のノモンハン事件との接点を明らかにすることができた。これにより、これまで個別に研究されてきた日ソ紛争を体系的に捉える基礎を作ることができたと考えている。1939年のノモンハン事件は第二次世界大戦直前に勃発し、対ソ紛争中に独ソ不可侵条約締結、第二次世界大戦勃発という日本と世界の関係に大きな影響を与えた紛争である。このノモンハン事件に乾岔子島事件が及ぼした影響を部分的にでも明らかにできたことは大きな研究の進展といえる。 その他には研究出張により、東京都立大学図書館などで史料の発見もできたため、今後の研究に生かしていく予定である。
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今後の研究の推進方策 |
乾岔子島事件の研究の中で、事件の終結に外交交渉が大きな役割を果たしていることが明確になった。重光葵駐ソ大使とマクシム・リトヴィノフ外務人民委員との外交交渉で、ソ連は一方的に乾岔子島からの撤退を提案し、日本がこれを受け入れたことで紛争は終結した。 令和4年度の研究で、紛争勃発の背景や経緯を明らかにすることができたため、今後は終結の経緯について研究することで、国境紛争と政治の関係を明らかにする予定である。 今後の研究は、日本の外務省が編纂した『日本外交文書』に収録されている日ソの外交交渉の記録を一つずつ丁寧に調査し、必要に応じて原典の確認を行う。同時に他に未発見の史料がないか調査を継続する。交渉の全体像を浮き上がらせた上で、ソ連側が一方的な撤退を申し出たタイミングやその時の日本の反応などに注目し、課題を整理した上で紛争の終結過程の研究に取り組む。 乾岔子島事件は、そもそもソ連国境警備兵がアムール川に浮かぶ乾岔子島を占領したことで勃発した紛争であり、ソ連側が外交交渉で撤退を申し出たのであれば、軍事的な成果を外交で一方的に放棄したことになる。このようなアプローチは、ソ連の他の紛争と比較しても例外的だと考えられる。 現在の国際情勢に鑑み、ロシアに渡航して一次史料を調査することは難しいが、二次資料(新聞、研究書など)の活用は部分的に可能である。したがって、日本の一次史料とロシアの二次資料を突き合わせることで、なぜソ連が実効支配を完了した島嶼を一方的に放棄したのかについて、新しい仮説を提示したい。 今後の研究のために乾岔子島事件の外交交渉に関わる国内の文献調査と史料研究も加速させる。
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