2024年度は、以下の3つの視点から研究を進めた。 まず第1に、1910年代の中京圏の工業化を、名古屋の輸出商社・服部商店を対象に研究した。この研究では、綿紡績業の工業化過程だけでなく、各地域で織物業の工業化がみられ、中小企業を中心とする産地が形成されていった。このなかで服部商店は、東京向けの内需市場に加えて、中国や東南アジア諸国に向けた輸出市場を開拓することで販路を確保し、産地の中小企業を下請け工場として組織した。それだけでなく、自社の紡織工場を設立することで生産過程にも進出し、紡績業界にも大きな影響を与えることになった。 第2に、名古屋の中京財界を形成したキーパーソンとして矢田績に注目して、彼の功績や人的関係から研究を進めた。矢田績は、和歌山に生まれ慶應義塾に学んだ後、神戸で新聞記者として赴任するものの、中上川彦次郎の影響を受けて鉄道業を経て三井銀行へ入行した。その後、京都や横浜の支店長を経験したのちに1900年代初頭に三井銀行名古屋支店長として、奥田正香をはじめとした名古屋の財界人と交流し、名古屋の大都市化、そして工業化の一翼を担うことになった。1913年の稲永疑獄事件で奥田正香が失脚したのちは、名古屋財界の混乱の収束に奔走する一方で、豊田佐吉や服部商店へ資金や人的交流面での支援を積極的に行い、中京圏の新興勢力を育て上げたのである。 第3に、1920年代の日本綿業の対中国投資をテーマに研究を進めた。第一次大戦ブーム期に急速に成長を遂げた日本綿業は、中国市場の販路と労働力の確保を企図して、中国本土で紡績工場を設立した。在華紡・同興紡織株式会社の分析によれば、同興紡織は本社企業からは独立して、販路開拓や設備拡張を行っただけでなく、豊田式の紡績機械を積極的に導入するなど新規設備の導入も進めていた。このように在華紡は、独自の経営戦略を発揮して成長していたのである。
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