2023年度は、これまでに収集した電子化済の原資(史)料をもとに、資(史)料の読解と分析とを行なった。特に、斎藤喜博が校長を務めた群馬県佐波郡島村立島小学校(以下、島小と略記する)における学校公開研究会の実態解明にあたった。斎藤在任中の島小では、全8回に及ぶ学校公開研究会が開催された。斎藤が島小校長として学校づくりを行なったのが1952(昭和27)年度から1962(昭和37)年度までの11年間である。学校公開研究会は、1955(昭和30)年度から斎藤が不意転により異動する1962年まで取り組まれた。なかでも第8回公開研究会(1962年)では、島小の到達点といってよい授業が行なわれたとみられる。今年度は、その到達点としての島小の授業を対象とし、島小とはいかなる学校だったのか、斎藤喜博はどのような学校づくりの実践を展開したのかということについて主として検討の対象とした。 島小では、教師によって学校公開研究会での授業を行なう回数に違いがあった。最も多くの回数をこなしたのが武田常夫である。武田は、8回に及ぶ学校公開研究会のすべての会において授業を行なった。その特長は、今日的にいえば省察する教師である。武田は、あくまでも教師の責任として授業を展開しようとし、教材の解釈に臨む。しかしながら、どんなに教材解釈をつくしたところで、実際の授業ではうまく行くわけではない。常にやり残したことがあり、常に不完全燃焼なのが授業という世界である。そのことを読者に実感させる記録を残している。 このことは、斎藤喜博の授業論や教師論に共通することである。斎藤喜博が青年教師時代に執筆刊行した教育実践記録(『教室愛』)によれば、斎藤喜博もまた青年時代において省察する教師として存在していたのである。
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