研究課題/領域番号 |
21K02263
|
研究機関 | 京都大学 |
研究代表者 |
|
研究期間 (年度) |
2021-04-01 – 2026-03-31
|
キーワード | 熊谷直恭 / 蓮心 / 鳩居堂 / 施印 / 放生 / 牛馬 / 善書 / 京都 |
研究実績の概要 |
本年度は、京都老舗鳩居堂の四代目当主である熊谷蓮心(直恭)が設置した牛馬放生所の意図を検討した。蓮心の「医療情報」施印活動を支えた思想の解明が本研究の課題であるが、そのためには、まずその思想全体の把握が必要だからである。従来の研究は、それについて「国恩報謝」、「勤皇」、「石門心学」といった断片的な指摘はあったものの、いずれも史料紹介にとどまり、体系的かつ実証的検討には基づいていない。よって、今後蓮心の思想を考えるための前提として、現段階で求められるのは、その生涯を年表で整理し、彼が関わった全ての活動の実態と、支えとなった思想を一つ一つ詳細に解明する作業である。牛馬放生所の設置は、蓮心がその人生において早い時期に手掛けた事業であるため、本年度ではそこから着手した次第である。 牛馬放生所の設置意図について、従来の研究では「牛馬が殺されるのを見るにしのびず」「老衰の牛馬を憐」んだ以上のことを述べていないが、本研究では、京都市歴史資料館所蔵「熊谷家文書」と、山口県文書館所蔵「吉田樟堂文庫」という文書群を利用することで、以下の二つの意図があったことを明らかにすることができた。まず、一枚摺によって広く世間に共有された「表」では、牛馬放生所は善書が唱える「諸願成就」を意図とする企画として説明された。もう一つ、当事者しか知らない「裏」では、放生所は、蓮心が東野村の困窮救済のために引き受けた、借金返済を意図とする「借財済方」の工夫であったのである。
|
現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
「近世医療情報」とかかわる「施印」を主な対象とする本研究では、本年度の牛馬放生に関する蓮心の施印活動は直接関係がないようにも見えるが、実は以下の2点において重大な意味があった。 第一に、「個人」か「集団」か、という問題である。蓮心がこの放生所設置に取り組むようになったのは、従来からの強い願望があったからではなく、わりと短い期間における、いくつかの偶然の出会いや働きかけが重なった結果であった。そういった意味で、本研究が取り扱う蓮心によって出された施印は、蓮心に署名があったとしても、それは彼個人による活動ではなく、彼を代表とした集団の活動の可能性もあることがわかった。 第二に、「表」か「裏」か、という問題。蓮心はその施印活動において、「表」と「裏」での情報管理に配慮していた。要するに、牛馬放生所の設置の背景には、東野村の財政困窮を救済する意図もあったが、その事情は施印においては言及されなかったのである。では、放生所の設置背景に潜んでいる東野村の財政困窮の救済策を、あえて公表しない蓮心の思惑は何だったのか。陰徳を目指した自粛か、東野村民に対する配慮か、寄付金を増やす戦略か、放生論の優先か、公儀に対する遠慮なのか、様々な事情が考えられる。一事例だけで想像を膨らますのも無駄なことであるが、情報の使い分けが行われたこと自体は重大なことである。 以上の問題は、蓮心のその後の施印活動にどれほど反映されたのかは見通しが付かないが、すくなくとも来年度に蓮心の「医療情報」施印を本格的に検討するにあたって、アンテナを張るべき注意点が得られたことは大きな収穫であった。
|
今後の研究の推進方策 |
本年度の研究では、熊谷蓮心の最初の社会事業であった牛馬放生活動を解明してきたため、来年度はその二つ目の事業となった「麦飯」効用を弘める活動を検討する。この活動に着目する理由は3点ある。第一に、蓮心は「麦飯」効用について、その一生涯を通して唱え続けたため、彼にとって重大な意味を持つ活動であったこと。第二に、理想的な「麦飯」を作るための農業経験の試行錯誤が、町人である蓮心の思想に重大な変化をもたらす契機となったこと。第三に、「麦飯」宣伝活動を始めた直後、天保飢饉が発生したため、その活動が蓮心本人をはじめ、周辺の人々にも重大な意義を持つようになったこと。 要するに、蓮心の「麦飯」効用の宣伝活動は、本研究の課題となる「近世医療情報の教育メディア史」を追究するには、様々な角度から極めて重要な事例だと考える。
|