研究課題/領域番号 |
21K05659
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研究機関 | 東北公益文科大学 |
研究代表者 |
温井 亨 東北公益文科大学, 公私立大学の部局等, 教授 (50271606)
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研究期間 (年度) |
2021-04-01 – 2024-03-31
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キーワード | 酒田 / 内町組 / 水帳 / 伊東家文書 / 元禄亀ヶ崎城下大絵図 / 地籍図 |
研究実績の概要 |
2021年度は、明暦酒田町絵図(光丘文庫所蔵)、元禄亀ヶ崎城下大絵図(荘内神社所蔵)、明治の地籍図(明治28年頃)、伊東家文書にある水帳(酒田市史資料篇六)を用いて、明暦から明治初めに至る町家の敷地割りの変遷を調べた。敷地割りまで分かる地図資料で明治以前のものは上記2絵図しか知られていない。上記2絵図は酒田の市街の全域をカバーしているが、水帳で残っているのは伊東家が大庄屋を勤めた内町組分の一部だけである。これには酒田市史資料篇として活字化された分があり、またその後発見された分がある。今回用いたのは活字化されたもので、そのうち上内町、下片町、新片町、鷹町、外野町を調査した。先行研究としては、工藤定雄によるものがあるが、これは水帳を用いて敷地の売買を追い、分割、合筆の変遷を明らかにしている。しかしながら新片町に限られるのと、水帳だけを用いているので、それが地図上のどこに当たるかが分からない。そこで本研究では、水帳に書かれている敷地が、町絵図あるいは明治の地籍図のどこに当たるかをまず調べた。水帳が残っているのは、享保16(1731)年から幕末までであり、上記の通りこの期間の絵図、地図はない。元禄亀ヶ崎城下大絵図には所有者と間口、奥行の長さが書かれているが、これは元禄9(1696)年のものであり、水帳とは35年のずれがある。一方、明治の地籍図は明治28年頃のものであり、こちらも約30年のずれがある。今回の研究では絵図・地籍図と共通の名前の所有者を複数探し出し、その順番が絵図・地図と水帳で一致する所有者・敷地を探した。その結果、上内町、下片町、鷹町、外野町(後の二町は元禄以後の町割なので、地籍図から特定)でそれを発見することができた。これにより水帳に書かれた敷地が地図上のどこかが特定できたことになる。新片町では発見できなかったが、庄屋の位置を仮定することで推測できそうである。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
4: 遅れている
理由
新型コロナ感染症流行のため、東北各地で行う予定であった調査ができなかった。また、漁村研究は庄内が対象であるため比較的やりやすかったわけであるが、こちらは方法論が定まらず進まなかった。 新型コロナは徐々に収まりつつあるが依然続く恐れもある。その場合は、漁村調査にしぼり、また昨年度実績報告した町絵図、地籍図、水帳を用いた人と接触しないで可能な研究に集中することとしたい。
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今後の研究の推進方策 |
改めて居住における稠密性を問い直し、以下のように進める。実績報告した酒田の場合、敷地を縦に半分に割るハンザキヤが、明暦から元禄にかけてすでに多数現れている。一方、敷地を前後に分けることは幕末にかけて増えたことが分かる。それに対して明治に合筆が進んだと思われる節があるが、水帳の残っていない地域である。場所の不一致をどう扱うかを考える必要はあるが、明治期の合筆含め進めたい。地曳網を引いた浜の漁村については、戦前の稠密な村の様子を明らかにしている歴史地理研究があるので(長井政太郎『十里塚村誌』)、それを地曳集落の仮説として他の地曳集落を調査するとともに、入り江の漁船集落との比較を行いたい。佐渡島の宿根木集落(漁村と湊町の双方の特徴を持つ)は稠密な構成であることが知られ、重要伝統的建造物群保存地区として保存され先行調査もある(本研究とは視点が違う)。そこでここを早期に調べ、漁村調査に役立てたい。各地の町家調査は、新型コロナの状況を見つつ、予備調査で他と違うことを見出している村上と白河から始めたい。
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次年度使用額が生じた理由 |
新型コロナ感染症で旅費が全く使えなかった。そこで今年度は、当初考えていた単独での調査旅行に加え、予定しているシンポジウムの内容を練ることも兼ね、複数の研究者で調査することを考えたい。当初は、A市の調査は筆者がでかけ、その地の研究者と意見交換するイメージであったが、B市を調べるのに、筆者に加えA市の研究者にも同行してもらい調査する。それにより、A市、B市の比較が、筆者単独の視点から複数の視点での比較となり深まることが期待される。こうした複数の視点での比較研究はシンポジウムを通して行う予定だったが、事前に可能となり、シンポジウムの内容も深まると思われる。
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