本年度は「中宮」「東宮」についての検討を行った。特に「中宮」については、前年度までの中国の用例との比較をもとに、日本の天皇の宮を指す用例と、キサキに関連する用例の二つが、日本社会のなかでどのように両立し得たのかを考察した。その結果、奈良時代の日本では、居所としての「中宮」は天皇の宮を、ヒト(役職)を示す場合は中宮職(皇后宮職・皇太后宮職・太皇太后宮職の総称)のみが使用されていたのが、奈良時代後半(称徳朝以降)に天皇の宮を指す用例がなくなることで、皇太夫人の別称としての意味が加わり、場所とヒトともにキサキ関連の用例に収斂していくことが明らかとなった。この成果は、口頭報告するとともに「奈良時代の「中宮」」として論文にまとめた。 関連して奈良時代の内裏の変遷についても検討を加え、橋本によって皇后宮・後宮とされた奈良時代末の内裏空間は、天皇の私的空間に、十二女司の殿舎が取り込まれて整理されたものとの結論を得た。これまでの研究で、光仁天皇の皇后井上内親王から皇后宮が退転すると考えられてきたが、本研究によって、桓武天皇の藤原乙牟漏の皇后宮までは内裏の外に皇后宮が独立して営まれていたことが明らかとなった。本成果は執筆中の新書(日本の後宮)に盛り込んでいる。 「東宮」については、中国と異なる点として、公式令平出条に「皇太子」の規定がないこと、同闕字条に「東宮」「皇太子」が規定されていることから、日本では「皇太子」よりも「東宮」の語が重視されていることが確認できた。ここからは、7世紀末の皇太子制成立の前段階として、「東宮」という称号が使用されていた可能性が考えられる。 以上の居所派生語の検討によって、7~9世紀の日本王権における皇太子・三后(+皇太夫人)の特質を明らかにした。特に、日本のキサキが「天皇の妻」ではなく「天皇の子の母」として導入されたことは、従来の研究とは異なる大きな成果である。
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