研究実績の概要 |
令和5年度は、朱印地寺社関係史料の翻刻作業を行った。一部はアルバイトを依頼して進めた。また、国文学資料館所蔵出羽国山形宝幢寺文書27点約6,500コマの撮影も行った。こちらは宝幢寺の役者・役僧が毎日記帳しつづけている「当番帳」で、主に文化・文政期から嘉永期の簿冊について撮影した。 近世後期における山形宝幢寺(寺領1,370石)と静岡臨済寺(寺領100石)の寺領支配の実態について、比較の視点から分析を行った。その結果、宝幢寺においては、寺付の寺役人と天童門前村役人を核とした寺領支配機構が確立していた。加えて、寺領灰塚村の土地移動問題を分析した結果、寺領所持者が当初より寺領民ではなく、かつ宝幢寺がその資金を投下して請戻しを行うにもかかわらず、何度も質入れが行われ、隣村の渋江村民が寺領所持者となって明治維新を迎える。かかる点から、寺領とは年貢納入のみを媒介とした関係であり、村や所持者とは一程度遊離した存在としての宝幢寺という位置づけが可能である。 他方、静岡臨済寺においては、寺領支配の機構が存在していない可能性が指摘できる。また、門前に寺領民が集中するという地理的要因もあり、法事・掃除への現夫・現物徴発を主とする門前家役が設定され、土地移動についても、惣百姓の合意のうえで臨済寺へ報告が必要とされ、寺と寺領民との関係が濃密であったことが窺える。 さらに、寺領民の処罰手続きを事例に武家領主支配とのかかわりを考察したが、宝幢寺においては山形藩・天童藩が関与する事例はあまりみられず、臨済寺においては、寺が駿府町奉行へ訴え、奉行所での審理が実施されるなど、同奉行と密接な関係がみられた。 その他の考察も含め、地域を大きく異にする両寺についての分析からは、共通性と差異性の両側面が存在していたことが明らかとなった。かかる視座は、近世における寺社領主の特質解明に大きく寄与すると考えている。
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