研究課題/領域番号 |
21K13110
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研究機関 | 国際日本文化研究センター |
研究代表者 |
齊藤 紅葉 国際日本文化研究センター, 研究部, 機関研究員 (00785529)
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研究期間 (年度) |
2021-04-01 – 2024-03-31
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キーワード | 明治維新 / 幕末 / 公家 |
研究実績の概要 |
令和4年度は、公武合体の名の下での公家内の動向と構想を、野宮定功の関係資料等を用いて検討した。結果、幕府に対抗しうる朝廷の創設を意識した岩倉や三条らと、幕府に依存することで朝廷権威を維持しようとした野宮らの相違が生じ始めたことを明らかにした。 万延元年(1860)から文久2年(1862)にかけての和宮降嫁について、従来明らかにされてきた通り、岩倉具視は積極的にその実現を図った。岩倉の目的は、安政の大獄以後、幕府への政治的要求を控えていた朝廷の権威上昇であった。ただし、従来の朝廷と幕府側の交渉ルートの枠を飛び越えた岩倉の動向には多くの批判が集まった。和宮降嫁に反対する公家や武家に留まらず、共に降嫁の実現に向けて尽力していた久我建通らからも批判が出た。これは、降嫁後の新たな朝幕関係の具体策が見えてこない点と合わせて、当時の岩倉の限界を示すものである。 一方で、野宮定功ら多くの公家は、和宮降嫁には批判的であったが、朝幕関係を穏当にすることで国内体制の安定を図りたい考えで、岩倉らの公武合体の目的とは異なる考えのもと活動し始めた。また、三条実美や徳大寺実則等、安政年間、三条実万に同調していた公家らは、和宮降嫁を批判はしたが、国際環境が急変した中で、幕府に対抗しうる朝廷の創設を意識した点では岩倉と同様の側面を持っていた。 このように和宮降嫁は従来指摘されていたように、岩倉の失脚や長州藩をはじめとする幕府批判の沸騰を引き起こしたのみならず、その後に公家内の分裂が激化する要因となった。それゆえに、明治後、新国家確立に向けて公家内の一致を図る際、岩倉は和宮の帰洛を強く求める必要が生じたのである。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
幕府や諸大名など、武家側が公家内における公武合体運動をどのように捉えていたのかを検討し、中央政治全体における公家の動向を位置づける予定であった。しかし、昨年度に引き続き、Covid-19の影響で当初計画していた史料調査に赴けず、武家側が公家の思想や動向をどのように捉えていたのかについては、今後の課題として残った。
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今後の研究の推進方策 |
文久2年(1862)から王政復古に至る公家内の分裂の激化を明らかにする。和宮降嫁を中心に公武合体を巡って公家内の対立は大きくなったが、その後、薩摩藩・長州藩の中央政治への介入に伴い、その対立は決定的となった。従来、長州藩とつながって影響力を強めた三条実美らの台頭と失脚、その影響もあって失脚した岩倉具視に焦点が当てられてきた。しかし、実際には、両勢力が失脚した後、朝廷を支えた公家らが存在する。幕府に近いとされてきた野宮定功や徳大寺公純の史料を用いながら、王政復古に至る公家内の動向を検討する。
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