令和5年度は、文久2年(1862)、長州藩が朝廷と結びついて国家体制の改革を目指し台頭した後について、朝廷内の分裂と仲介勢力の動向を分析した。従来、同時期は岩倉具視・薩摩藩と三条実美・長州藩の対立、王政復古直前の協調が強調されてきた。しかし実際には次の通りであることを検討した。三条・岩倉らは薩長とつながって、開国・攘夷、公家・武家(朝廷・幕府)を超えた、中央集権の下での公武混合の公議体制の国家を描いた。それに対し、王政復古後に力を落とす徳大寺公純や野宮定功らは、新たな中央集権国家を描けず、対立が深まった。ただし、公家内において、対外情勢に鑑みて国内分裂が危険であるとの認識は共有されており、中院通富らは慶応3年(1867)には公家の分裂を最小限に留めるために行動し始めた。 本研究課題では、明治維新が成し遂げられた一要因を、従来、十分に検討されてこなかった明治後に勢力を落とした公家における、幕末期の内政・外政に対する構想を通して検討した。その結果、次のことを明らかにした。①19世紀初頭以降の対外情勢の変化を受けて、公家内部において対外危機感が高まり、それが安政5年(1858)通商条約勅許反対へとつながっていくこと、②同危機感が、内乱の回避という共通認識を公家内に生み出したこと、③岩倉、三条らが朝廷自体の変革を含む王政復古へと向かう一方、朝幕関係の本質の変化を望まない野宮らとの対立が深まる中、②の意識が公家内での仲介勢力を作り出し、王政復古につながっていくこと。これが維新後、武力を伴う公家の反乱を押しとどめ、維新成立の一因となった。そして、この幕末の公家全体の動向が、明治後の公家の包括・協調につながっていく。
|