性的マイノリティやフェミニズムというテーマについて、近年かつてないほど急速に社会的な関心が高まりつつある。教育や医療、行政といったあらゆる分野で、性にまつわる差別の解消に向けた制度改革や意識啓発が精力的に進められている。その一方で、ジェンダー/セクシュアリティ研究の概念的枠組みをめぐる理論的な作業は、長らく停滞を迎えている。現在のジェンダー/セクシュアリティ論の到達点とされるのは、「セックスもまたジェンダーである」という90年代ポスト構造主義フェミニズムの主張である。それはすなわち、生物学的セックスの二元性そのものが、社会的構築物であるという洞察である。ポスト構造主義フェミニズムによれば、生物学的セックスは通文化的に存在するものではない。それは人間の身体に無理やり押しつけられた、人工的なフィクションである。この種の議論は、ジェンダー/セクシュアリティ研究に多大な理論的混乱をもたらすことになった。性別とはどのようなカテゴリーであるのかが、もはやわからなくなってしまったのである。現在のジェンダー/セクシュアリティ研究においても、異性愛主義や本質主義は理論的に乗り越えられたわけではない。この概念的混乱ゆえに、当該領域は理論的な後退を迎えつつあるとすら言える。本研究では、このジェンダー/セクシュアリティ論における分析枠組みの問題を精査し、S・フロイトの精神分析によってその困難の乗り越えをはかった。
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