研究課題
DOHaD(Developmental Origins of Health and Disease)学説では,「胎児期や生後直後の健康・栄養状態が成人期の健康に影響をおよぼす」とされており,乳児期の栄養環境,すなわち乳汁の質が,将来の体質や健康,疾病罹患リスクに影響すると考えられる.母乳の30%を占める脂質については,多価不飽和脂肪酸(PUFA)が豊富であること以外,その栄養生理学的な意義は必ずしも明らかではない.PUFAは細胞膜成分となるだけでなく,その代謝産物が生理活性物質としても働く.ω6系アラキドン酸由来脂質メディエーターは,恒常性の維持にも必要である一方,過剰な産生が炎症,癌,神経変性,アレルギー,免疫疾患などの惹起や増悪に関与する(炎症誘導性脂質メディエーター).近年,ω3系のEPAやDHAの代謝産物が,炎症を抑え,免疫系を正しく制御し,アレルギーや精神疾患発症の抑制にも働くことが報告されている(炎症収束性脂質メディエーター).神経系や免疫系の発達が顕著な乳児にとって,母乳の「脂質の質」がその後の成長や体質,健康に大きく影響すると考えられ,これを明らかにすることで,DOHaD学説や乳児期栄養における脂質の新しい意義の解明を目指している.まずは,リピドミクスによる母乳の脂質成分構成の特徴を解析した.次に,乳汁の脂質成分組成を決定する酵素を同定するために,妊娠・授乳期マウスをモデルとして,乳腺発達の経時変化における脂質メディエーター合成系酵素の発現動態を解析した.さらに,母親の食事による母乳の「脂質の質」の変化を明らかにするために,授乳婦を対象として,油脂摂取の介入研究を行い,その間の母乳を採取した.これについては,次年度にリピドミクス解析を行う予定である.
2: おおむね順調に進展している
ヒト母乳とウシ生乳より,Bligh-Dyer改変法で脂肪酸あるいは脂質メディエーターを母乳より抽出し,液体クロマトグラフ質量分析(LC-MS/MS)にて網羅的なリピドミクス解析を行ったところ,比較的に,ヒト母乳では遊離脂肪酸,不飽和飽和脂肪酸,ω3系脂肪酸,炎症収束性脂質メディエーターが多いことを明らかにした.さらに,マウス乳汁についても解析したところ,ヒト母乳の脂質成分組成に近く,乳汁中脂質の質を決定する酵素の解析には,妊娠・授乳期のマウスを用いて検討することとした.マウス乳腺組織を経時的に採取し,定量PCR法にて,脂質メディエーター合成系酵素の発現動態を解析したところ,cPLA2アイソザイムが,乳腺発達に関連することを見出した.そのcPLA2アイソザイムについては,これまでにその生理学的意義についてほとんど明らかになっていない.我々が行った臓器分布解析からは,臓器特異的に,特に乳腺での発現が高いことを見出しており,乳腺の発達あるいは乳汁分泌に関連することが示唆された.現在は,その酵素のヒトリコンビナント酵素を作製し,in vitroでの酵素学的特徴について,酵素学的な解析を行っている.摂取する油脂が母乳の脂質の質に影響するのかを調査するために,授乳婦を対象とした油脂摂取介入研究を実施している.本年度は,多価不飽和脂肪酸組成の異なる2種の油脂を付加的に摂取させて,その間の乳汁を採取した.油脂を摂取しない期間の乳汁とあわせて,次年度に網羅的なリピドミクス解析を実施する予定である.
本年度の研究より,妊娠・授乳期モデルマウスの解析結果から,乳腺発達や乳汁中脂質成分組成において,脂質メディエーター合成系の中で鍵となる新たな酵素が推定された.これは,ホスホリパーゼファミリーに属する酵素で,これまで,その生体内での酵素活性や基質親和性を含めた生理的意義が報告されていない酵素である.さらに,その発現臓器の解析では,他のホスホリパーゼに比べて非常に臓器特異的で有り,臓器にのみ発現することが分かった.乳腺で高発現することは,これまでに報告がなく,新しい所見である.今後は,その酵素の詳細な酵素学的特性の解明を進めるとともに,乳腺より調製したリン脂質混合基質を用いて,LC-MS/MSによる脂質の網羅的な解析により,基質親和性を明らかにする.授乳婦を対象とした,油脂摂取による母乳中脂質成分組成への影響を調査する研究では,本年度は,これまでに回収した母乳サンプルより,脂質成分を抽出し,分析試料として調製を行い,リピドミクス解析を行い,その変化を明らかにする.
ヒトを対象とした介入研究において,コロナ感染症の影響で,当初予定していた大規模な被験者募集ができず,謝金等の費用が予定額よりも少なくなった.また,この影響で,分析についても次年度となり,その分の経費は持ち越すこととなった.
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