本研究の目的の一つは、敗戦後の対日講和やアジア諸国との国交正常化・賠償協定について、国際協定として成立した「政府間和解」の枠組を基礎的記録によって見直すこと、もう一つは、「政府間和解」にもかかわらず、様々な形で「歴史問題」や戦後補償問題が噴出する過程は、政府間和解のあり方とどのように関連しているか、その持続と定着を妨げた要因は何かを探ることである。 そこで本研究では、サンフランシスコ講和体制を、講和条約を基点とするアジア諸国との一連の平和条約・賠償協定を含む政府間の法的枠組のみではなく、占領改革や植民地帝国の清算をも抱合する広い意味での戦後処理の基盤=政府間和解の枠組ととらえ、この講和体制において戦争賠償の問題がどのように位置づけられていたのか、新たな公開資料によって検討した。その概要は代表者による著作『国家と歴史』に示したが、個別の賠償問題についても事例研究を行なった。例えば、講和前に終結したアメリカによる中間賠償の国際的意義、在外財産の処分問題、東南アジア4カ国との賠償協定の相互関係、対中賠償との関連などである。 第一次大戦後の戦争賠償をめぐる国際外交は、敗戦国の戦勝国に対する「償金」という、損害回復をねらいとする二国間問題ではなく、国際政治経済システム全体の回復と発展を促すという視点が重視されていた。対日賠償問題は、国際安全保障の確保、地域秩序の形成と安定、国内政治経済の改革という3問題と連動しつつ、アジア太平洋の国際システムとしての講和体制の安定と定着という観点から処理されてきたことを示した。その結果、未解決の諸問題が封印され、講和体制の安定を支えていた冷戦と自民党支配とが終焉すると、講和体制の枠外の批判勢力であった中国や韓国において戦後補償問題などが「歴史問題」として噴出することになった。
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