イネの遺存体が出土する中国新石器時代の遺跡からは、コイ科魚類遺存体も大量に随伴しているにも拘わらず詳細な研究は全く行われていなかった。本課題ではコイ科魚類咽頭歯遺存体と漁撈具等の関係遺物について詳細な分析を行い、稲作開始期の漁撈と稲作の関係を解き明かした。 これまでにイネ遺存体が随伴する代表的な、1)浙江省田螺山遺跡、2)河南省賈湖遺跡の咽頭歯遺存体についての分析を行った。1)では、日本列島の縄文・弥生遺跡の漁撈活動と同様に、産卵期の魚を捕り、保存加工していたことを明らかにした。また、原始的な養鯉は行われていない。2)では、魚の種構成から、当時の河南の気候が、考えられていたよりも温暖で、現在の広東から広西ぐらいの気候であること。3つの文化層のうち、第1期では産卵期の漁撈、第3期では原始的な養鯉が行われていたことを明らかにした。 漁網錘の研究では、長江型土錘や管状土錘が長江下流域・江蘇平原に出現したのち、さらに河南地域や山東地域へと拡大していることがわかった。このことから、漁網錘は、水辺環境における漁撈や稲作を内包した広範囲経済のもと出現し、その後、漁撈と稲作が個別の生業類型として独立しながら分布を拡大したと考えた。 本課題のまとめとして、後氷期になって食料資源の転換をせまられた人々は、水辺環境に定期的に産卵にやってくる魚群をみつけ、それをきっかけに水辺の資源を利用するようになった。長江流域では、その中に野生イネが含まれ、漁撈と野生イネ採集のセットが成立、さらにイネについては採集から栽培へと発展する。一方、食糧保存の一つの方法として原始的な養鯉が行われるようになった。これには水を制御する技術が必要で、この技術が水田稲作に転用された。その後、江蘇平原や長江流域で発達した網漁撈の技術は、河南地域や山東地域へ広がり、後に稲作と切り離されて独立した漁撈技術として確立したと考えている。
|