醴陵、景徳鎮、有田の釉下彩調査を行い、日本、中国で現在使用されている釉下彩絵具の収集、技法調査、各種色見本の作成、技法道具の収集、またその歴史的変遷調査を行った。 醴陵では清国湖南人熊希令によって陶芸の興隆が図られ、1906年醴陵磁業学堂が設立された。京都陶磁器試験場の技師であった安田乙吉代を招聘し日本式陶磁技法の教育が採られ、その卒業生が今日の醴陵の陶磁産業を支えている。一方醴陵磁業製造公司(会社)が設立され、日本の近代技術を取り入れた陶磁器製造過程とその後の発展調査を行った。醴陵での近代陶磁器殖産事業規模はかなり大きく、政治的にも大きな役割を果たしたことが調査によって判明した。 景徳鎮の調査では染付顔料の収集とだみ技法における様々な筆の収集を実施。それらの筆の運筆法の習得実習を行った。だみ技法に用いられる筆は日本と中国では違いがある。日本の筆はやや腰がある筆を使用しているが、中国の筆は全般に腰のない筆が日常の墨筆に使用されており、墨はじきでも同様な筆が使用されており、線描筆も日本と比べて軸は長く穂先は丁寧にまとめられていた。 景徳鎮は分業体制素地別製造や、本焼き、上絵付けとそれぞれに細分化された製造形態がみられた。それに比べて醴陵、有田の陶磁製造は各会社内で素地製造、絵付け、焼成まで一貫した製造形態を維持しており、日本の形態と醴陵の形態は近似していることが判った。有田のだみ技法調査では波佐見町教育委員会の古陶磁破片慶長4年1559年からの陶磁破片の中に墨はじきとだみ技法を発見した事が新知見である。また陶磁問屋の下で各技法が分業で行われている図柄が描かれた有田陶磁美術館蔵品「染付陶磁絵大皿」から、現在の有田、醴陵、景徳鎮の陶磁製造体制と変わらないと推察される。 色見本の作成では、東京藝術大学において、日本の顔料、中国清華大学において中国醴陵顔料の色見本を作成した。
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