研究概要 |
本年度は、カンペチェ州南部に位置するラモナル遺跡のうち、ラモナルAの測量と試掘を行うことを予定していたが、ラモナルAの簡便な測量を行いながら、同時にラモナル遺跡として登録されている6つの遺構群の分布状況を確認するための踏査を行った。その結果、古典期終末期(後800年~後1000年ごろ)における当該地域の文化・社会的状況に関して、これまで考えられてきた解釈とは異なった状況を想定するに至った。 ラモナル遺跡は、1912年にR.E.マーウィンが初めて概測と報告を行っており、便宜的に名付けたA,B,C,D,EおよびXの6つの遺構群から構成されると考えられてきた。ラモナルAは、1995年にベナビーデスらによって一部修復されているが、その他の遺構群については、ほとんど調査が行われていない。今回、6つの遺構群について踏査した結果、以下の点について再考する必要性が生じた。(1)6つの遺構群には、それぞれ異なった配置や建築の特徴が見られる。したがって、ひとつにまとまった行政=祭祀センターというより、各々独立した機能をもっていた可能性が高い。(2)ラモナル遺跡周辺から、より南方に位置するリオ・ベック遺跡にかけて、大小さまざまな遺跡群が分布しており、現在考えられているよりはるかに多くの集団が、ほぼ同時代にいくつものセンターを形成していた可能性が高い。(3)古典期マヤ社会において、大規模な優越センターが小規模な従属センターを複数支配していたとしても、古典期終末期ごろ、この地域では優越センターの支配とは異なった、独立した諸集団の活動があったことを考えなくてはならない。今後、チチャンカナブ湖底コアやカリアコ海底コア調査等で示された気候変動(大干ばつ)がペテン地域におけるマヤ文明の崩壊と関連していた可能性と併せて、ペテン地方からユカタン北部へと文明の中心が推移していった過程を再考したい。
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