研究概要 |
『諸學校職員録』,『中等教育諸學校職員録』を手懸かりに,明治後期における各種学校としての女学校体操科受持ち教員の実態を明らかにした.高等女学校令によらないため教科の制約はなかったが,体操科受持ち教員がいる学校は,年により過半数から三分の二程度あった.女子教育者が女子のために創設した私塾から発展した学校が多く,普通女学校だけでなく,職業などを冠して様々な女学校があった.高女,実科高女へと発展するためには,高女令による学科課程を整備しなければならなかった. 体操科受持ち教員の三分の二が女子であった.私立東京女子体操音楽学校出身者が最も多く,1908(明治41)年には14人であった.次いで,外国人教師,日本体育会体操学校女子部,女子高等師範学校出身者で,外国人教師の割合は次第に減少して行った.体操科のみの受持ちが次第に増え,1908(明治41)年には三分の一を占めるようになった.新設間もない女学校では,体操科は女子教員一人の受持ちが多かった.複数教科以上の受持ち教員を含めて,体操科を1番に記載してある教員も増加し,1908(明治41)年には,体操科受持ち女子教員の44.4%となり,女子体操科教員に特化していった.体操科と併せて二科以上を受け持つ教員は,日本人は音楽(唱歌)との受持ちが多く,次いで習字,理科,裁縫などであった.外国人は全員英語と併せての受持ちで,3科の場合,音楽が加わった.高等女学校のように職名が厳密に,体操科1科の受持ち教員は嘱託や講師の割合が高いが、次第に減少していった. 体操科受持ち教員中,女子教員の方が多く,新設校では女子教員一人が体操科を受け持っていることなどは,女子体操科教員が重要視されていたことを示す.これは,1903(明治36)年の高等女学校体操科教授要目で示された「體操ハ成ルヘク女教員ヲシテ之ヲ教授セシムヘシ」の影響を受けていたためと考えられる.
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