研究概要 |
1904(明治37)年の『諸學校職員録』,1906(明治39)年,1908(明治41)年の『中等教育諸學校職員録』を用いて,明治後期における高等女学校体操科受持ち教員の実態を明らかにし,1903(明治36)年3月の高等女学校教授要目で示された「體操ハ成ルヘク女教員ヲシテ之ヲ教授セシムヘシ」の実現状況を検討した. 「體操ハ成ルヘク女教員ヲシテ之ヲ教授セシムヘシ」が示されたことにより,体操科を受け持つ女子教員が必要となった.しかし,他教科を専門としながら体操科も受け持っていた女高師卒業の女子教員は体操科を担当することを嫌っていた.一方,私立体操学校出身者は短期養成で女高師出身者と同様に高等女学校の教員になることができた.学校側は私立体操学校出身者を女高師出身者よりも低賃金で雇用できた。女高師出身者,私立体操学校出身者,学校側とそれぞれの思惑が合致していた.こうして,女高師卒業の女子教員から私立体操学校卒業の女子体操科教員の受持ちへと移行した場合が多かったことが明らかとなった.女高師出身者は教諭が大多数であった.特化した「女子体操科教員」は助教諭心得,嘱託など低い位置に置かれ,給料は教諭の三分の二から半分程度と低いものであった.私立体操学校の卒業生は「女子体操科教員」としてその数を増やしていくが,短期養成で大多数が無資格のため低い地位で安価な労働力であったことが明らかとなった. 国は女子体操科教員養成を怠ったため,短期養成の私学がそれを補ったことにより各年とも体操科受持ち教員の7割程度が女子教員であり、約8割の高等女学校では「體操ハ成ルヘク女教員ヲシテ之ヲ教授セシムヘシ」が実現していた.この結果,多くの女子体操科教員は「助教諭心得」や「嘱託」などの地位に置かれ,高等女学校女子教員と特化した高等女学校女子体操科教員の間に格差が生じることになった.
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