本研究では、『中等教育諸學校職員録』 (1930年、1934年) 、『高等女學校女子實業學校職員録』( 1939年)を手懸かりに、昭和戦前期における高等女学校・実科高等女学校体操科受持ち教員の実態を明らかにし、女子体育教師の確立過程と役割を検討した。 1939(昭和14)年高女と1934(昭和9)年、1939年実高女で1校平均体操科受持ち教員数は女子教員の方が多く、男女比でも半数を超えた。1939年の高女女子体操科受持ち教員の1903(明治36)年に比較しての増加率は男子より高かった。薙刀女子教員、出征中の男子体操科受持ち教員が増加した。しかし、女子体操科受持ち教員が増加しても、 高女では、1930年24.2%、1934年25.0 %、1939年18.6%、実科高女では1930年48.3 %、1934年42.9 %、1939年40.4 % の学校に体操科受持ち女子教員がいなかった。1903年の高等女学校体操科教授要目で示された「體操ハ成ルヘク女教員ヲシテ之ヲ教授セシムヘシ」は実現できていなかった。高女では1939年には体操科受持ち女子教員中72.0%が体操科1科のみの受持ちとなった。2教科受持ち者の高女でおよそ3分の2、実科高女でおよそ8割が音楽・唱歌との受持ちで、その割合は大正期より高くなった。 教員養成を目的とした官立学校(女高師、臨教)の卒業生数は少ないので、体操科受持ち教員の大多数は私学の出身であった。私学は、大正末期に2校が加わり4校になった。大正末期から昭和初期にかけて無試験検定出願が認められたためその後の卒業生の多くは有資格となった。 女子体育教師は体操科1科あるいは音楽と併せて2科を受け持つ私学出身者が主流となった。出征中の男子体操科受持ち教員を補う役割もあり、明治期、大正期よりさらに女子教師から女子体育教師として、特化しながら確立していったと考えられる。
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