ケーススタディの最初期段階で個別ケースを理解する際に文学的想像力が大きな役割を果たし、その読みの妥当性の判断根拠が問われるという点で、臨床倫理学は文学と根本的な課題を共有している。そこから、小・中学校の国語での小説・詩の読み方の教授法をめぐる半世紀以上の教育論史を参照し、歴史の浅い臨床倫理学とその教育上の論点を浮き彫りにするという着想を得た。戦後の文学教育では〈解釈学的作者中心主義ないし正解到達主義〉対〈読者論〉、〈分析コードを用いた客観的技術的な読み〉対〈主体的な読み〉を軸に論戦が展開されてきた。この図式はそのまま臨床倫理学に重なる。昨今趨勢の正解到達主義および分析コード主義に抗して、機微を重んじた主体的な読みのぶつけ合いを志向する、問題発見的反省的なあり方こそが臨床倫理学にとって枢要であることを明らかにした。 テクストの妥当な読み方を探りあてるための技法の探求は古来、解釈学と呼ばれてきた。近代には、その対象範囲が拡大され、学としての基礎づけが意識されるようになり、さらにやがてハイデガーとガダマーによって解釈学の根本性格は単なる方法論から存在論へと読み替えられることとなった。解釈学の哲学化の動向それ自体は否定されるべきものではないが、しかしそれで方法論としての解釈学の基礎づけという課題が解消霧散するわけでない。臨床ケースの個別特異的な倫理問題にむき合う臨床倫理学は、他者の個別的な心的生を追構成的に生き生きと理解する内的過程の可能性とその根拠を究明しようとしたディルタイへと遡らなければならない。ところが、学を志向するあまりディルタイは結局、個性を同種的な類型へと切り上げたのだった。類型を経由しなければ個性に至れないのならば、臨床倫理学はカズイストリに向かうことが必定である。個性の理解の可能性と根拠を見据えるためにディルタイが捨てた心理主義を批判的に深く再検討する必要がある。
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