今年度は、実在的定義こそが本来の本質であるとする定義的本質主義を採用したうえで、その個別的応用事例として、特に〈鏡像〉と比較しつつ〈虹〉の本質について考察した。 虹は、光線反射の所産であるという点で鏡像と物理現象としての類似性を有している。しかし、鏡像が実際に見える位置にはそれに対応するような対象は何も存在しないため鏡像は実在しないのに対し、虹が見える位置には水滴中での光線の屈折・反射によって形成される一種の〈光源もどき〉が実際に存在するため虹は実在するという、実在性に関する大きな相違があるように思われる。しかし、実は虹が存在するかに見える位置は観測者の位置に相対的であり、その光源もどきによって形成されているアーチ上の虹は、知覚に導かれて結果的に観測者が選び取っている、水滴集団中の〈恣意的部分〉であるにすぎない。すなわち時空上の特定の位置に存在する〈対象〉としては虹も実在しない。この点において、虹は鏡像と同様の非実在性を共有していると言える。 ただし、虹の場合は、各観測者にとってそれが存在するように見える位置においては実際に光線の反射・屈折という物理現象が起きているが、その個体としての切り出され方が観測依存的である、という理由でその実在性が否定されるのに対し、鏡像の場合は、個体としての客観性は成立しているが、それが存在するかに見える位置においては関連する物理現象もそれを起こす傾向性の所有者も存在しない、という理由でその実在性が否定されるという点で、非実在性の由来に関する対照性が両者の間には認められる。この意味で、虹も鏡像も私たちが知覚に導かれて創り出した非実在的な〈物もどき〉であるという点では共通しているが、その非実在性の主たる所以は、虹の場合は一種の〈形相性〉の欠如であるのに対し、鏡像の場合は一種の〈質料性〉の欠如であるのだとも言える。
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