平成26年度は、論文「善と個人 ―個人における共同的な善への服従について―」(名古屋大学文学部研究論集、第61号、pp.15-43、http://hdl.handle.net/2237/21540)を公表した。 本論文は、個人が共同的な善に服従するという帰結がどのようにしてもたらされるのか、という問題を扱う。人間の行為理解の基本形式は、プラトン以来、何を行なうにせよ、人間は自分がよいと思うことを行なう(『ゴルギアス』468B)、という形式である。この形式を妥当と見なすと、自己犠牲的行為の存立は説明できない。なぜなら、自己犠牲とは、自分にとってよいことを断念し、他の人々にとってよいことを行なうことだからである。この、合理的個人には自己犠牲があり得ない、という逆説的な主張を、ヒースウッド(Heathwood)は2011年の論文で「自己犠牲論法」と呼んだ。 本論文では、自己犠牲論法を無効化しようとするオーバーボルド1980、同1982と、ヒースウッド2011の功利主義的分析をまず検討し、これらが論法の無効化に成功しないと結論する。すなわち、もしも自己犠牲的行為が存立するならば、そのとき個人は自分がよいと思うことを実行していない。個人は、他の人々にとって善いことを為せという端的な命令に服従しているのである。 合理的個人の解釈枠組みは功利主義に限られない。チャールズ・テイラーは、自己犠牲と同等のジレンマ状況に対し、合理的個人の非功利主義的解釈によって解決を見出そうとする。本論文は、チャールズ・テイラーの所論を検討して、非功利主義的な合理的個人の解釈においても、最終的には個人が共同的な善に服従する事態が避けられないことを見出す。 以上のとおり、本論文は、自己犠牲的行為を事例としつつ、個人が共同体の命令に服従するという帰結がいかにして生じるのかを明らかにした。
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