神仏関係思想の研究:今年度は、一遍の神仏関係思想と名号思想との原理的な関係について考察を深めた。「十一不二」の名号思想は、浄土と世俗世界との存在論的「平等」性を説き、存在的に隔絶している浄土と世俗世界とを「一遍」の名号によって埋めようとする。それは浄土経典の論理的帰結ともいえる思想である。しかし、その絶対的救済性を理論的に確立した一遍は、絶えず修行を続け、踊念仏に出遭い、さらにはそれを時衆の修行様式とする。ここには、存在論的平等性の「知」的確信と、存在的隔絶性を今ここで埋めようとする「感性」的営為という二重性が見られる。その「感性」的営為に神信仰に基づく儀礼および死後の霊魂への儀礼を援用することによって、名号を称えて踊るという踊念仏に結実した「感性」的営為としての名号思想が生じたことを明らかにした。 踊念仏の研究:踊念仏に関しては、天台宗のうちにあった行道との関係を考察した。また、空也との関係のみならず、当時一般的であった融通念仏および土俗的な父母供養の念仏(追善供養・慰霊鎮魂)との関係で捉え直し、その背後にあるシャーマニズムとの関係でも原理的に考察を深めた。シャーマニズムに見られる没我性が、「無念」という念仏における理想的心的状態と関連を持ち、一遍の「感性」的営為としての念仏思想の確立に繋がったことを明らかにした。 『一遍聖絵』の絵画の研究:詞書に記述のない絵画部分を取りあげて分析した。聖戒が同行したかどうか不明な箇所もあるが、聖戒が同行せず、伝聞した部分に関する箇所において、土俗的な儀礼や景物が描かれているのではないかという仮説を提示した。特に、墓地、海、山岳などの景観が重要な意味を持っていることを明らかにした。今後、絵画の研究を進める上で、聖戒自身と一遍(とその同行者・時衆)とを区別し、その関係を考察すべきである。
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