中国における西洋学術受容の初期における代表的なパターンである西学中源説は、清初の西洋の天文学・数学の受容の際に示されたモデルと基本的に同一であって、その背景にある世界観には本質的な違いはない。従って、西学中源説はアヘン戦争以降の西洋の科学・技術を受容する必要性から生まれたとする、西洋の衝撃-中国の反応だというパラダイムは見直しが必要となる。つまり、西洋の衝撃によって、伝統的世界観が揺らぎ西学中源説・中体西用論が生まれたのではなく、中国の伝統的世界観が揺らぎ無く信じられていてこそ生まれたものである。従って、洋務論-変法論-革命論のモデルで、洋務論・変法論で揺らいだ伝統学術が革命論=ナショナリズムによって「伝統の再生」としての国学が生まれたという伝統否定=近代化パラダイムには無理があり、伝統的学術体系・世界観が直接「国学」につながる。日本における中国の近代(化)研究は、中体西用論を日本の和魂洋才とのアナロジーでとらえて、和魂洋才の和魂が中体西用論における中体だと、日本の西洋学術受容のパラダイムを援用した中国の国学成立の説明は、進んだ日本=遅れた中国というコロニアルな偏向を含んでいる可能性があることが明らかとなった。また、朝鮮の国学に関しては、韓国慶北大学校国文学科において以前から「国学」研究がなされており、その中心は朝鮮における中国の伝統学術の受容・展開の成果にあることが明らかになった。日本の国学に関しては本居宣長が国学を生み出した思想的背景には、欲望の肯定があるのであって、それは当時の儒教(朱子学)の欲望の否定と対をなしており、宣長後の国学の展開においても儒教への対抗意識が大きく働いていることを明らかになった。
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