論文“The Jnanakarmasamuccayavada in the Commentaries on the Manusmrti”は,合法的出家者の生活規範を定めた『マヌ法典』第6章註釈の中で,註釈家たちがどのように解脱の追求と社会的義務の履行を両立させているかを解明した。 論文“Kumarila and Medhatithi on the Authority of Codified Sources of dharma”は,法典の規範の権威をどう考えるかという問題に関し,クマーリラとマヌ法典註釈家との間に,どのような影響関係があるかを以下のように解明した。 クマーリラは,現存するヴェーダに典拠が見いだせない宗教儀礼の根拠を失われたヴェーダに帰するのは,異端宗教を容認する危険があるため,我々のヴェーダに典拠のない宗教儀礼も,どこかの他流派に現在伝わるヴェーダに典拠があるはずだと説いた。これに対しマヌ法典註釈家のMedhatithiは,クマーリラの立場でも宗教的相対主義を免れないとして,現存ヴェーダに見いだせるマントラや釈義文を,宗教儀礼の典拠としてクマーリラよりも積極的に承認した。またクマーリラは,法典のうちでは『マヌ法典』のみが個別のヴェーダ流派を超えて普遍的に受け入れられていることを指摘して,様々な法典のうちでも特に『マヌ法典』に特別の権威を認めた。これに対しMedhatithiは,現代の有識者たちも,マヌをはじめとする伝説的な法典作者に比して決して劣ってはおらず,現代の有識者によって,将来『マヌ法典』に匹敵する権威をもつことになる法典が編み出される可能性はあると明言した。Medhatithiが,クマーリラからの影響を受けつつも,法典註釈家として実際の法廷で裁判審理にあたる法律家の立場に立って,ミーマーンサー学派よりは現実的な法源論を展開したことが判明した。
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