本年度は初唐時代の仏教美術の様相を考察する前段階として、隋時代仏教造像についての考察をおこなった。隋時代初頭(580年代)、河北地方はもとより旧北斉領各地で、北斉仏教美術の影響が強く認められた。その中には山東地方のようにそれが強く現れた地方も存在する。麦積山石窟隋初窟や、敦煌莫高窟隋第2期諸窟など旧北周領でも若干遅れて同様の現象が見られるようになる。結果、地域の独自性が弱められることになった。しかし北周時代末に断行された廃仏により、隋初仏教美術は未だどこも復興的な色彩が強く地域性が残り、またその後各地で自らの伝統を基礎として発展を遂げたため、統一的様式、形式が成立するには至らなかった。6世紀後半に仏教美術をリードしてきた〓が破壊され、また隋の首都西安ではそれに代わる強い求心力を持つ新たな様式、形式を創出することはできなかった。600年頃までにはしかし、旧北斉旧北周の両領域において、ともに現実世界に存在するリーダー的な資質を備えた、自国の高貴な若い人物として菩薩像が造形化されるようになった。各地で細部形式は異なるが、中国全土で統一的なイメージが形成されたのは重要である。このことから、隋時代前期とは、統一様式や形式が出現する準備が整えられた時期であったと評価できる。如来像の場合、鉤紐式袈裟を纏い両脚を袈裟に完全に包み込み、両膝を持ち上げることで腹前部分が窪みとなり皺の輪郭が弧を描くなどの特徴を備える像が、590年頃に山東地方で出現した。その青州雲門山石窟第1窟本尊に見られる堂々としてリラックスした姿の像は、インドや西域に認められず、「真の仏の姿」を西方に求める段階を脱していた。実在しそうな自国の高貴な若者の姿をした菩薩の像出現と、呼応すると言うことが可能である。そして旧北周領内では、これらの様式、形式を備える像が隋時代後期に見つけられる。
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