本研究では、小蘋作品の伝来や注文主、小蘋作品に関わる様々な言説を検証することにより、少蘋画の受容者の社会階層、注文の目的、作品の用途と社会的機能、画家の社会階層と活動状況、活動地域、時代の変化などを分析する。また、それらと小蘋の作品との相関関係を検証することにより、明治・大正期の社会の中で、小蘋画のような南画(文人画)が担った役割と位置付け及び小蘋の作品の意義を考察し、幕末から明治・大正時代を生きた一人の女性画家と社会との関係を解明しようとするものである。 本年度の調査、研究により、小蘋10代の遊歴時代には、恐らくは医師であった父・松村春岱の斡旋により北陸、名古屋、伊勢などの様々な階級の知識人らを巡りながら、求められるままに様々な画題の絵を描き、画業を開始したこと、慶応年間頃、関西南画壇を代表する日根対山に師事したこと、京都時代には、師・対山や木戸孝允を中心に、周辺の知識人と親交を結び、画題としては美人画を多く求められたこと、結婚後、東京に再上京して画家としての活動を本格化させてからもそれまでの知識人たちとの交流を頼りにしつつ、展覧会への出品を重ねて、次第に名声を高めていったこと、皇室の御用もつとめるなど、画家としての評価が高まった明治20年代には、美人画をほとんど描かなくなったことなどが、調査の中で見いだされた新出の作品等により明らかとなった。これらの変遷は、受容者の社会階層、注文の目的、作品の用途と社会的機能、画家の社会階層と活動状況、活動地域、時代の変化が、画題、画面形式、造形的な様式に大きな影響を及ぼしていったからといえるだろう。 本年度は、特に、新出の《上巳雛祭図》を中心に、画題、様式、製作環境の変化を検証し、「野口小蘋《上巳雛祭図》について」(『実践女子学園香雪記念資料館館報』2013)において、これまで不明な点が多かった小蘋最初期の画業の様相を具体的に提示した。
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