本研究の目的は、1920年代から40年代にかけての戦間期における「大阪」と「上海」をとりあげ、西洋音楽受容の比較研究をおこなうことであった。この時代、西洋音楽が東アジアに本格的に受容される過程で大きな役割を果たしたのは、祖国を追われた亡命ロシア人と(上海においては)ユダヤ人難民であった。これらの亡命者、難民のなかには母国で一流の専門教育を受けたすぐれた音楽家が含まれていた。音楽家たちが活躍した音楽学校、楽団、劇場をめぐる資料をもとめて、日本においては主として大阪音楽大学音楽博物館及び京都大学文学研究科図書館、上海においては上海図書館及び同、徐家匯蔵書楼にて資料調査をおこなった。 3年間の研究期間のあいだに、特筆すべき一次資料を得たのは、上海図書館徐家匯蔵書楼であった。これまで租界史先行研究において触れられることがなかったフランス語新聞Le Journal de Shanghai(1927-1945) を見出したことにより、亡命音楽家たちが関わった演奏会やバレエ公演などの具体的なプログラムとその上演内容に対する音楽批評までも読み取ることができたのである。さらに2012年には上海で発行されていたロシア語新聞、Slovo、Zariaや中国語新聞『新聞報』へと調査対象を拡げることとなった。結果として、これらの新聞の複写や電子媒体の購入によって、1940年前後の戦時下の上海の演奏会情況の把握に一定の成果をみることができた(2012年、第63回日本音楽学会大会における口頭発表、『音楽藝術』2013年第1期に共著論文として発表)。 一方、大阪については、上海におけるような層の厚い亡命者の活躍は確認できなかった。むしろ、上海との比較で浮かび上がってきた特徴は、日本人による音楽専門教育(私立の音楽学校、私的音楽塾)が尊重されてきた事実であった。
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