江戸・上方の和文の会について、多くの関係資料を検討して次のような知見を得た。 1. 上方の伴蒿蹊主催の和文の会の様子は、蒿蹊自身の『閑田文草』等の内容の精査により、ある程度具体的に推測できる。七十人近くの門人が和文の会に参加していること、また遠方の者は文音(すなわち手紙)によることがあること、会ごとに予め文章の題が決められていて文章を持ち寄る場合とその場で題を選び作る場合があること、同じ題で複数の人間が競作する場合があること、等々である。蒿蹊自身は、和文の文体を、漢文の文体分類になぞらえてさらに細かく分けて考えていたようだが、結果的に残った作品は、門人の作品はもちろん、蒿蹊自身の作品も、様々な和文体を書き分けているとは言い難い。 2. 江戸の村田春海を中心とした江戸派の和文の会の実態は、春海の『琴後集』や、清水浜臣の『泊洦文集』、残存する和文作品集から、これもある程度推測可能である。やはり漢文の文体に倣ってある程度の文体弁別意識を持っていたことが分かるが、とりわけ消息(手紙)には関心が深く、消息の文章だけを作る和文の会である消息合の会なども催されている。 3. 近世初期の木下長嘯子の『挙白集』あたりから幕末に至るまで、和文の作品を収める家集等を広く調査した。その結果、和文が盛んに作られ、また家集に入ることが多くなるのは十八世紀後半、国学の興隆によって漢に対する和の意識が昂揚した時期以降のことであることを確認した。それまでにも漢文に対する日本の文章であることを意識するものはあったが、それは和文ではなく、十七世紀後半から十八世紀にかけて蕉門等で盛んに作られた俳文であった。
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