最終年度は、口頭発表を5つ行い、3本の論文のほか、全4巻の資料集を発表した。 上記編著では、日露戦争後、日本のアジア主義とインドの独立運動とが英国で黄禍論として警戒された過程を、チェスタトンやミットフォードなどの言説の復刻から再現した。解説では、それら資料と黄禍論小説との連続性を指摘したほか、アルフレッド・ステッドが英国で反黄禍論を宣伝するにあたって日本政府に援助を依頼した事実など、従来のイメージ論とは異なる複雑な日英交渉の一端を明らかにすることができた。関連して、英国で範例としてまで評価された武士道が、アジア主義への警戒から黄禍論の論拠へと反転した過程について、論文「日露戦争期の英国における武士道と柔術の流行」で詳述した。 こうした日本のアジア主義がインド独立運動を刺激するという脅威が現実化したとして、英国に衝撃を与えたのが鹿子木事件である。1919年、哲学者の鹿子木員信がインド滞在中、私信を密偵に通報され、独立運動幇助の咎で強制送還されて以降、日本人インド旅行者には密偵による尾行が常態化するようになる。送還の記録でもある鹿子木の『ヒマラヤ行』と『仏績巡礼行』(共に1920年刊行)はインド旅行記の基本文献となるが、看過されてきた英国の諜報活動と日本側の反応について、論文「鹿子木員信のインド追放とその影響」で発掘した。 一方、同時期の英国の日本での防諜活動について、「日英における移動と衝突-柳、柳田、スコット、リーチの交錯の例から-」で、その人脈の錯綜を指摘した。神智学徒のジェイムズ・カズンズがインドから日本を訪れ、インド人留学生グルチャラン・シンらを神智学ネットワークに引き入れた一方で、英国から訪日したロバートソン・スコットは、英国大使から依頼され、宣伝活動を行っていた。その人脈の要こそが柳宗悦であり、柳は双方から接触されつつも、距離を保っていたこともあわせて指摘した。
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