本研究は、日韓女性の交流・相互認識の歴史を1960年代後半から70年代までを中心に分析するものである。研究成果は、(1)60年代後半から70年代にかけて、アジアやアジア女性への関心を喚起し、新しいアジア認識を主張した、日本女性およびグループについて分析した。山崎朋子とアジア女性交流史研究会、飯島愛子と侵略=差別と闘うアジア婦人会議、山口明子・高橋喜久江とキーセン観光に反対する女たちの会、松井やよりとアジアの女たちの会)がそれである。(2)彼女たちの認識の特徴として、被害者意識から出発する戦後の女性運動とは一線を画し、アジアへの加害者意識を持っていたという点、女性自身の意識変革とともに日本国家を変える思想としての可能性を持っていたという点を分析した。(3)こうした女性たちの認識・運動は、70年代後半の主流の女性運動の中で継承されず、衰退していくが、その経緯について具体的に分析する手掛かり・視点を得た。1975年にメキシコで開かられ国際婦人年世界会議を境に、日本の女性運動は、法・制度・政策・教育・労働・メディア・家庭の性差別主義の解消に向い、その過程で、70年代前半の女性運動が持っていた「女性・日本を変える」という思想的志向は、女性運動の主流の中で萎れるという視点である。(4)金允玉(韓国教会女性連合会、キーセン観光反対運動の中心人物)、車玉崇・徐明善(梨花女子大学校学生としてキーセン観光反対運動を担った人物)、山口明子(日本キリスト教協議会、キーセン観光反対運動の中心人物)、(4)高橋喜久江(日本キリスト教婦人矯風会、キーセン観光反対運動の中心人物)への聞き取り調査を行い、70年代日韓女性たちによるキーセン観光反対運動を分析する資料を得た。
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