研究概要 |
本研究では、紀州徳川藩を対象に、主に牢番頭家文書により19世紀の具体相を分析した。 1、共同体の変化。城下町隣接(城付)かわた村では人口増大が顕著で、密集性の高い大規模集落となった(約700軒・3000人)。同村は、商品生産的な都市近郊農業、履物関連業・皮革業・諸営業、賃稼ぎ、季節的芸能等の多様な労働を抱えた。村内は少数の頭仲間・村役人・組頭と、多数の小前層で構成され、村政をめぐる対立が激化した。多数の貧困層から、百姓・町人身分と同様に無宿を析出した。入牢者の分析で軽犯罪と無宿の深い繋がりが判明した。郡中のかわた村もほぼ似た傾向が見られた。 2、領主御用(役負担)の変化。18世紀末までに城下かわた頭仲間の内聞召捕役が郡中に拡大されたが、天保12年(1841)に廃止となり、追放引纏い役も惣廻り非人番に移された。藩の警察業務が身分原理によるかわた身分に依拠する形から、地方支配の原理に移行する動向が見られた。科人・刑人は1830年代頃に激増し、牢番役・吟味役は町奉行所のみならず、勘定奉行所・御目付からも業務を命じられた。明治2年の獄制改革で、身分集団を前提としない補亡制度の末端に吸収され、やがて近代警察制度へ移行した。 3、風俗統制の強化。天保12年(1841)、幕藩体制全体の身分秩序の強化、紀州徳川藩の改革で、かわた身分等の「在家江入交り、悪弊増長」という秩序観により、かわた・非人身分に対する「取締」令が出され、秩序強化が図られた。この背景にはかわた村における新たな貧困、乞食・非人稼ぎの増大にともなう摩擦が存在した。近世は勧進容認社会であるが、明治4年に物乞いが禁止され、近代に移行した。社会全体の貧困者拡大で、かわた身分の種姓性が強調された。 以上のように、1地域に絞って17,18世紀のかわた身分制度が変容する過程、役負担を中心とする制度の解体過程を具体的に解明することができた。
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