検註帳分析よって得られた結論を時間軸に即してまとめておきたい。 〔第一段階〕一二世紀後半期(中世かせだ荘成立と穴伏川井堰秩序)紀ノ川に面する下位段丘上の水田耕地を安定化するため、穴伏川(静川)から引水する文覚井(一・二・三ノ井)が開削された。とくに巽のほうじに至る笠田中・笠田東地区には条里型地割7里余が設定され一ノ井東線により開墾が進んだ。文治元年検田取帳の記載により、荘園領主神護寺勢力が穴伏川井堰秩序の全体を掌握してかせだ荘領域を拡大していたことがわかる(近隣の静川荘・名手荘・志富田荘への侵略)。 〔第二段階〕一六世紀後半期(中近世移行期の紀ノ川統御)紀ノ川の河川敷にはじめて石造連続堤防(窪・萩原遺跡護岸)が築造され、氾濫原に島地・荒蕪地が広がるという歴史環境が終焉した。一五世紀より紀ノ川流域で中洲地の島畑・芝地等開発をめぐる在地勢力間の係争が見られ、この動向の延長で河川統御が志向されたものだろう。同じ地域では以後数次にわたり堤防の増築が確認されて川幅が圧縮され続け、現在の昭和期堤防に帰結する。 〔第三段階〕一八世紀(紀州藩の紀ノ川新田・街道開発)高野口小田の井堰から岩出に至る紀ノ川右岸の広域用水路である小田井用水が開削され(一七〇七年に竣工)、堤防内側の沖積低地が水田化した。段丘上の耕地も、文覚井の一・二・三ノ井に依存していた流末部分が小田井の水掛りに切り替わる。これにともない文覚井は段丘北部への水回しを充実するため一部流路を変更した。一八世紀半ば以後、大和街道が沖積低地を通るように路線変更した。 〔第四段階〕二十世紀(現代開発と交通)一九七九年に和歌山県最大の用水路である紀ノ川用水(奈良県十津川水系猿谷ダム取水、橋本-和歌山間)が完成して、山麓縁辺の洪積段丘上の耕地に水回しが可能になる。この水路のラインに並行する形で、京奈和高速道路が計画され開通間近となっている。
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