愛知県あま市の圓周寺所蔵の小笠原登の日記、書簡の解読を進め、特に1941年の日記をほぼ解読し、さらに、この年の小笠原をめぐる新聞・雑誌記事の調査・収集を行った。この年の12月、日本が対米英戦争に突入する直前、大阪帝国大学で開催された日本癩学会で、国立ハンセン病療養所の医師ら患者の強制隔離を進める立場のひとびとから、小笠原は隔離政策に反対する「国賊」のように誹諺され、激しく攻撃された。このときの事情は、これまでにも学会の機関誌『レプラ』などで明らかにされていたが、日記を解読することで、小笠原の心情や、小笠原を支持する京都帝国大学医学部皮膚科特別研究室のスタッフ、さらには同室の入院患者の言動も鮮明となり、理不尽な隔離政策を進める国策への小笠原と同室スタッフの強固な対決姿勢も解明することができた。こうした研究成果をもとに、同学会の状況は、医学の分野におけるファシズムの学問弾圧としてみなすことが出来る。これまでのファシズムによる学問弾圧というと、滝川幸辰、美濃部達吉、矢内原忠雄、河合栄治郎、津田左右吉など人文・社会科学の分野の学者への事例は知られているが、自然科学の分野でのそれはほとんど注目されなかった。そうした意味では、日記の解読によって、日本癩学会による小笠原登への激しい攻撃の実態の全体像が明白になったことは意義があると考えられる。 また、書簡のなかには、小笠原を激しく攻撃した側の医師たちとの個人的な親交も読み取れた。学者として同学の士と親しく交流しながらも、ハンセン病患者は強制隔離する必要はないという自らの学説に対しては、国策と対決しても譲らなかった小笠原の強い意志があることを理解した。なぜ、そのような強固な意志を持ちえたかについては、日記のなかからは、浄土真宗の信仰があったからと判断できる。 なお、2012年度は、1941年の日記の内容を活字化するとともに、1942年以降の日記の解読を進めたい。
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